さすがに、命は憂きにも絶えず、長らふめれど、後の世も、思ふにかなはずぞあらむかしとぞ、後ろめたきに、頼むこと一つぞありける。天喜三年十月十三日の夜の夢に、居たる所の屋の端の庭に、阿弥陀仏立ち給へり。定かに見え給はず、霧一重隔たれるやうに透きて見え給ふを、せめて絶え間に見え奉れば、蓮華の座の、土を上がりたる、高さ三、四尺、仏の御丈六尺ばかりにて、金色に光り輝き給ひて、御手、片つ方をば広げたるやうに、いま片つ方には印を作り給ひたるを異人の目には見つけ奉らず、我一人見奉るに、さすがにいみじく気恐ろしければ、簾のもと近く寄りても、え見奉らねば、仏、「さは、このたびは帰りて、後に迎へに来む。」とのたまふ声、わが耳一つに聞こえて、人はえ聞きつけずと見るに、うちおどろきたれば、十四日なり。この夢がばかりぞ、後の頼みとしける。
ほんとうに見えてしまった阿弥陀仏。
ありがたや。
それにしても、この阿弥陀仏、お嬢さんの庭に立っていたのであった。どうも、これは夫が亡くなる前の話なのであって、阿弥陀仏は夫のことを言いに来たのだが、間違ってお嬢さんに会ってしまった。――のかもしれない。お嬢さんは、これを唯一の頼みとするしかなくなったのである。お嬢さんは霧にまみれた仏まで見てしまうほどの能力だが、これは物語や仏典をしっかりしたモノとして把握しているからであろう。相手がぼうとしているのに、ちゃんと高さが何尺だとか記録しているところがすごい。よく見えないものまではっきり把握できる。テクストは表象の代替物ではなくそれ自体のものとして把握する癖があるからこういうことがおこるのではないだろうか。
仏の身長は六尺である。近代の六尺と言えば、これである。
病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。
近代でははっきりしたものしか認めないところから始めるから、逆にそのはっきりしたものが「世界」といった概念に置き換わってゆく。その結果、霧の中の仏など見えない。
「如何にして日を暮らすべき」「誰かこの苦を救ふてくれる者はあるまいか」此に至つて宗教問題に到着したと宗教家はいふであらう。しかし宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない。基督教を信ぜぬ者には神の救ひの手は届かない。仏教を信ぜぬ者は南無阿弥陀仏を繰返して日を暮らすことも出来ない。あるいは画本を見て苦痛をまぎらかしたこともある。
更級日記のお嬢さんだってあまり信心深いとは言えない。しかし、見えるものは見える。子規に仏が見えないのは、見た経験をどこかで否認するシステムが出来上がっているからである。
ほんとうに見えてしまった阿弥陀仏。
ありがたや。
それにしても、この阿弥陀仏、お嬢さんの庭に立っていたのであった。どうも、これは夫が亡くなる前の話なのであって、阿弥陀仏は夫のことを言いに来たのだが、間違ってお嬢さんに会ってしまった。――のかもしれない。お嬢さんは、これを唯一の頼みとするしかなくなったのである。お嬢さんは霧にまみれた仏まで見てしまうほどの能力だが、これは物語や仏典をしっかりしたモノとして把握しているからであろう。相手がぼうとしているのに、ちゃんと高さが何尺だとか記録しているところがすごい。よく見えないものまではっきり把握できる。テクストは表象の代替物ではなくそれ自体のものとして把握する癖があるからこういうことがおこるのではないだろうか。
仏の身長は六尺である。近代の六尺と言えば、これである。
病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。
――「病床六尺」
近代でははっきりしたものしか認めないところから始めるから、逆にそのはっきりしたものが「世界」といった概念に置き換わってゆく。その結果、霧の中の仏など見えない。
「如何にして日を暮らすべき」「誰かこの苦を救ふてくれる者はあるまいか」此に至つて宗教問題に到着したと宗教家はいふであらう。しかし宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない。基督教を信ぜぬ者には神の救ひの手は届かない。仏教を信ぜぬ者は南無阿弥陀仏を繰返して日を暮らすことも出来ない。あるいは画本を見て苦痛をまぎらかしたこともある。
――「同」
更級日記のお嬢さんだってあまり信心深いとは言えない。しかし、見えるものは見える。子規に仏が見えないのは、見た経験をどこかで否認するシステムが出来上がっているからである。