★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「ただよふ」経験

2021-05-14 23:15:26 | 文学


昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて行ひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて前のたび、「稲荷より賜ふ験の杉よ」とて投げ出でられしを、出でしままに、稲荷に詣でたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ「天照御神を念じたてまつれ」と見ゆる夢は、人の御乳母にして、内裏わたりにあり、みかど、后の御かげにかくるべきさまをのみ、夢解きも合せしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳も作らずなどしてただよふ

夫が死んだ現実?を、物語や歌ばかりを心にいっぱいにしていてお勤めをさぼっていたため、「夢の様な世」になってしまったと彼女は言っている。現実?の方が夢の様に感じられるのである。わたくしが、現実?と言うのは、彼女の体験しているのが夫の死というファクトであって、それ以外のことがどうなっているのか分からないからである。本人も分かっていない。彼女は、物語や歌を「よしなき」(役に立たない)と決めつけているだけで、初瀬の稲荷とかアマテラスの夢とかもう少し気にすべきオブジェクトだったと言っているに過ぎない。物語や歌と宗教に関わる予言じみたものは本当は並列関係にあって、一応物語や歌を悪者にしてみただけの様にみえる。物語の様に人生が実現しないことと、稲荷やアマテラスの予言がはずれたことが、何か彼女の自意識の中で納得いかない形で同一物としてくすぶっている。なぜか、鏡の中だけの悲しい姿だけが当たったようにみえる、と彼女は思っているもそのせいである。が、そもそも別に当たってもいないのである。

――結局、彼女が感づいているのは、異様に物語や宗教的なものにのめり込むことが現実感覚を狂わしたという事態である。だからこそ「かうのみ心に物のかなふ方なうてやみぬる人」(こんな心で物事がかなうことなく終わるひと)というわけである。したがって、「功徳」を今更積んだところで、ほんとは神仏に頼っても私の様なやつのばあいはうまくいかないに決まっている。しかし、この不幸は、物語や歌をとった自分の不信心のせいともおもわれるんで「ただよふ」(ふらふらしている)しかない。

が、しかし、結局、愛する人が死んで仏に目覚める的な帰趨は、「源氏物語」をある意味なぞっているのでは?と思うのはわたくしだけではあるまいて。

物語や歌にのめり込むあり方は、この人の場合、当たり前であるが、書物によって成立していた。「源氏物語」をすべて手に入れた感激がものすごいものであったことは前半で語られたとおりである。最近、つい「ゴジラ対メガロ」をみてしまったわけだが、いまみるとホントひどい映画なんだ。(二週間で撮ったらしい)アニメーションや特撮が、テレビの再放送によって記憶の中で反芻され耕された「文化」と化したし、80年代以降は、ビデオやDVDによってそれが加速した。映像が書物化したのである。しかし、でかいカブトムシみたいな怪獣(角から光線が出る)が出てきだけである種の子どもは大満足なわけだし、そもそも当時のこういうのは繰り返して見るもんじゃないしね。こういう文化はさっと見てさっと忘れることも大事だと思う。更級日記のお嬢ちゃんについてもそれはいえる。

平野に越してきてから気付いたのだが、水田というのは一種の海であり、空が映っていて、空も一種の海である。――こういう経験の方が、物語か現実かみたいな混乱を起こさない。こういう経験は対象が水なのに「ただよふ」ものではなく、全体が混ざらない。