★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

蜜柑を囲うか投げるか

2021-05-26 23:47:33 | 文学


神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入ることはべりしに、はるかなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋のしづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。 かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、周りをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばとおぼえしか。

別にええやないかと思うが、――兼好法師は「なからましかば」とか言ってるけれども、別に蜜柑の木を引っこ抜くことはないわけである。勇気のない多くの人の一人であった。

植物を育てると分かるが、植物の周りを囲ったりするのもある種の美的な行為である。これが分からない奴は、家の柱を引っこ抜く方がよい。

それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。

――芥川龍之介「蜜柑」


芥川龍之介は蜜柑を囲うのを嫌う人で、むしろ投げたがる。芥川龍之介は常にいろいろと投げたかったのである。しかし投げると人に当たるからダメダと言われる世の中になっていったので、蜜柑をじっと見つめることがなってしまったが……。考えてみると、上の蜜柑はどのように手に入れた蜜柑なのであろうか?実家から持ってきたのではないだろう。もともと実家にあるのであったら、弟たちに投げる必要はない。やはりどこかで買ったのか?貰ったのか?

最悪なのは、蜜柑を投げたのは――、実家で汽車のなかで食べてねと渡されたのを、この娘が蜜柑を嫌っていて(なぜなら蜜柑農家だったから)、実家からのろのろ着いてきてしまった弟たちに投げ返したという事態である。

追記)Z世代というものがあるのを知りました。