★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

友人論

2021-05-27 20:31:10 | 文学


同じ心ならむ人としめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなきことも、うらなく言ひ慰まむこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらむと向かひゐたらむは、ひとりある心地やせむ。
 互ひに言はむほどのことをば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違ふところもあらむ人こそ、「我はさやは思ふ」など言ひ争ひにくみ、「さるからさぞ」ともうち語らば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少しかこつ方も、我と等しからざらむ人は、おほかたのよしなしごと言はむほどこそあらめ、まめやかの心のともには、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。


気持ちがぴたりとあう友達と楽しく会話するのはいいだろうが、そんな人は――「さる人あるまじければ」と兼好法師は言う。とすれば、なぜ「同じ心ならむ人」という理想が可能なのであろうか。後の方で、「まめやかの心のとも」とも言い換えられているそれは、否定の向こう側にあらわれた偶像みたいなものだ。すると、彼の立論はいったい意味のあるものなのか怪しくなってくる。

たしかなことは、気を遣いながら我慢しながら人と付き合っている兼好法師の存在である。そして、おそらくは彼の相手も同じように気を遣っている。

結局、これは、いまの大衆社会論とおなじで、空気を読む我々を意識している我々というのは、そんなことを意識しない人間よりも脆弱で劣っている、ということが看過されれば、――何の意味もないのだ。上の文章で、兼好法師は気の合う友とは「世のはかなきこと」を話したいようである。悪い意味での達観がこの種の文章の本質だ。一方、喫緊の話題については、我々は意図的に逆に気を遣わない。だから派手な失敗が待っている。

B おい、おれは今度また引越しをしたぜ。
A そうか。君は来るたんび引越しの披露をして行くね。
B それは僕には引越し位の外に何もわざわざ披露するような事件が無いからだ。
A 葉書でも済むよ。
B しかし今度のは葉書では済まん。
A どうしたんだ。何日かの話の下宿の娘から縁談でも申込まれて逃げ出したのか。
B 莫迦なことを言え。女の事なんか近頃もうちっとも僕の目にうつらなくなった。女より食物だね。好きな物を食ってさえいれあ僕には不平はない。


――啄木「利己主義者と友人との対話」


この後どうなったかは忘れたが、友人というのはこの程度の話をすればよいというのも真実である。兼好法師は、この世の無常などについて友人と語りあおうとしているからだめなのだ。そもそも、話が合わない合わないで友人かどうかを判断しているのが中学生的なのだ。鴨長明と兼好法師がもし会ったら話が合ったかどうか。合うはずがないが、別にいいではないか。