今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知りはて、親の物へ率て参りなどせでやみにしも、もどかしく思い出でらるれば、今はひとへに豊かなる勢ひになりて、ふたばの人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむと思ひはげみて、十一月の二十日余日、石山に参る。
何か30を越えた辺りで、自分の描かざるを得なかった多方向の可能性が、共倒れして行くのを目撃したときに、――もうどうでもいいかな、と思う頃があり、一気に滅茶苦茶になってしまうことがある。そして、それの方が、現実的である様な気がするのであるが、実は全然違う。精神の崩壊は、生活のリズムや集中力をも奪う。この悲劇は、人しれず行われ、危機に気付く人々は多くない。思春期の危機は、危機として多くの文学が描いてきたから、存在を許されている。しかし、中年の危機はそうではない。
更級日記のお嬢ちゃんも、突然「昔のお軽い心は後悔すべきだったわ。」と「のみ」思い知る。この「のみ」が危険なのだ。本当は「のみ」ではすまないのである。自分の心がけの問題ではないからだ。だいたい、色男とすれ違ったことだって、彼女が三十を越えた女だったことと無関係ではないのだ、残酷だが。
そして、彼女は、また親のせいにして――物詣でに連れてくれなかったので、これからは行くぞとなる。そういえば、わたくしも、とつぜん神社巡りにとり憑かれたことがあった。しかし、わたくしは、まだ以下の様には思い切ってはいなかった。
今はひとへに豊かなる勢ひになりて、ふたばの人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむ
(こうなったら、あたいはひたすらに裕福力の爆発となり、芽吹いた双葉のように幼いかわゆい我が子をあたいの思い通りに育て上げ、あたいの身も、お倉に積みきれない山のような財で埋もれ果てつつ、来世の事までもちゃんと考えるわよ)
「それは怪しからん訳で――一体少し学問をしているととかく慢心が萌すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦の体である。
「いや、まことに言語同断で、ああ云うのは必竟世間見ずの我儘から起るのだから、ちっと懲らしめのためにいじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ」
――「吾輩は猫である」
更級日記のお嬢さんはまだ、自分で転向したから許せる。漱石なんかは、自分のなかに資本家を飼っていた。こういう男には転向はできない。それは流石に学のある倫理的態度であったが、人間の性は、漱石的非転向よりも、転向して痛い目に遭うことを選ぶことになる。わたくしは、西田幾多郎とか漱石みたいな人しか考えてはいけない発想(矛盾的なんとかとか、低回とか)というものがあって、もっと弁証法的に行った方が人生にたどり着く人間も多いと思うのである。小林秀雄が「当麻」で感激したりする、過去の芸術からあらわれる「形」は、決して一種類ではない。