千手観音(違う)
筋は忘れたが、こういう場面が突然思い出された。
「板倉屋は雲南麝香の掛け香を持っているから、一二間離れていても解るので、遠慮して誰も捕まえなかったと言うんだろう」
「え」
「それをお前は捕まえた、どうするつもりだったんだ」
「一度ぐらい鬼にしたかったんですよ」
――野村胡堂「銭形平次捕物控 麝香の匂い」
麝香の匂いといえば、抹香臭い。――これでなにか精神が鎮まってくるのは生理的に理由がありそうだ。
雪うち降りつつ道のほどさへをかしきに、逢坂の關を見るにも、昔越えしも冬ぞかしと思ひいでらるるに、その程しもいとあらう吹いたり。
逢坂の關のやまかぜ吹くこゑはむかし聞きしにかはらざりけり
關寺のいかめしう造られたるを見るにも、その折、あらづくりの御顔ばかり見られし折思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいと哀なり。打出の濱のほどなど見しにもかはらず、暮れかゝる程にまうで著きて、湯屋におりて御堂に上るに、人聲もせず。山風おそろしう覺えて、行ひさして、うちまどろみたる夢に、「中堂より麝香賜はりぬ。疾くかしこへ告げよ」といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけり、と思ふに、よき事ならむかしと思ひて行ひあかす。
中年の危機をあからさまに示している様に見える主人公であるが、思うに、――中年の危機は非常に社会的にも危険であって、小・中学生を学校に幽閉して下手なことをさせないように気を配っている様に、むかしは、歳を取り始めた人間の我が儘と僻み根性をなんとかするために、出家のすすめがシステムとして存在してたようなきがするのだ。「源氏物語」だって、それがなければ、もっと主人公も含めて人物たちが怨霊化してとんでもないことになりかねなかったのだ。――我々はそれをなんとなく感じているために、姨捨伝説がなんとなく清潔に感じられもするわけだ。
生涯教育とかかっこをつけているが、中年以降の人間を再教育するためにそれはうまく機能するかもしれない。教育する側がもっとヒドイ状態になっている可能性もあるのだが。