ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。此の国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
わたしもこういう人間の類いであるが、「見ぬ世の人を友とする」というところがやはりそこまで行く人と行かない人がいるようだ。わたくしはあまり行かない方だ。もっとも、これは読み手の側というより、作品による。のみならず、もしかしたら、友人というのは、そもそもフィクションの中にしかいないのではなかろうか。第十二段で言われていたように、よい友人は理想にすぎないのだ。
わたくしは、ドストエフスキーや島崎藤村の主人公達と友達のような気がする。ときどき判別がつかなくなるが、たしかに心の中にいる気がする。
ツイッターに誰かが書いておられたが、――人文系の学問が役に立たないのは大嘘で、影響を与えすぎる毒薬だから国家が禁止にしようとしているに過ぎない。実際の人間の影響力は大したことないが、書物は違う。心の中の友を作る。ヒトラーよりも確かに「わが闘争」が危険なのだ。
それにしても、わたくしは、白氏文集も老子も荘子も少ししか読んでいない。死ぬまでに読まなければ……。
桃太郎や猿蟹合戦のお伽噺でさえ危険思想宣伝の種にする先生方の手にかかれば老子はもちろん孔子でも孟子でも釈尊でもマホメットでもどのような風に解釈されどのような道具に使われるかそれは分からない。しかし『道徳教』でも『論語』でもコーランでも結局はわれわれの智恵を養う蛋白質や脂肪や澱粉である。たまたま腐った蛋白を喰って中毒した人があったからと云って蛋白質を厳禁すれば衰弱する。
電車で逢った背広服の老子のどの言葉を国定教科書の中に入れていけないといういわれを見出すことが出来なかった。日本魂を腐蝕する毒素の代りにそれを現代に活かす霊液でも、捜せばこの智恵の泉の底から湧き出すかもしれない。
――寺田寅彦「変った話」
本を蛋白質やらなにやらに喩えている寺田は流石科学者だ。しかし、本はそういう物質ではないぞ。もっと頭にダイレクトに迫ってくるものだ。孔子を採用し老子を排撃する国家が救いがたく馬鹿なだけだ。なぜ、国家や教師の裁量に脅えているのだ?単に思想と対決すればよいではないか?