折節のうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ。
「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとにいふめれど、それもさるものにて、今一きは心もうきたつものは、春の気色にこそあめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根の草萌えいづるころより、やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやう気色だつほどこそあれ、折しも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、なほ梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。山吹のきよげに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。
うるせえな、としか言いようがないが、ちょっと体に力がなくなってくるとこういう風に思うのも致し方ない。
花橘の袖の香の
みめうるはしきをとめごは
真昼に夢を見てしより
さめて忘るゝ夜のならひ
白日の夢のなぞもかく
忘れがたくはありけるものか
――藤村「昼の夢」
やる気のある人は、昼間も夢を見る。どうも、植物の移り変わりをながめるようになるのは、夜は勿論、昼も夢を見れないので、一生懸命物事の推移の表象を、走馬燈のようにぼやかしてゆくことではないかと思うのであった。