そこにも、なほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみたれば、舟の楫とりたるをのこども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔にあてて、棹に押しかかりて、とみに船にも寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。無期にえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所あれば、そこにしも住まわせたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かな、と思ひつつ、からうじて渡りて、殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮船の女君のかかる所にやありけむなど、まづ思い出でらる
無理してリアルな男に惹かれてみたり、夫に感謝したりするから、やっぱり自分は「源氏物語」が好きだと気付いてしまった。それにしても、物語によって喚起される風景と実際の所が違っていた場合如何するのか、はわたくしはいつも気になるところである。
長野県でも、山脈をパノラマのそれみたいに眺めて育った人と、山脈の一部にへばりついて育った人とは世界観が違う。新海誠のアニメーションを見たら、彼はたしか佐久の小海町の出なんだけどあそこはたぶん空が広い。対して、わたくしが経験していたのは、「木曾街道六拾九次」にときどきある坂や斜面で空間がぐいっと狭くなってるかんじ、あれである。
とはいえ、わかることもある。新海誠の雨の描写はうつくしいが、あれは山間部によくある夕方の天気雨みたいなかんじであって、独特な生暖かい冷たい風が吹いているのである。夏の短時間の豪雨の後の晴天も独特である。空気が入れ替わる感じが、夕方に起こる。子どもの頃はそれが普通だと思っていたが、愛知や関東に住んでみて、それはまったく特殊だったのだと気がついた。いまなんか、夕方は凪の影響で、むしろ夕方において空気は滞留して、時間が止まったきがするものだ。
――かんがえてみると、我々の経験している風景はいつもごく僅かで、まさに芸術作品における想像の部分で風景を見出しているので、宇治の実景と読者のお嬢さんの像が食い違っていても、想像はすみやかに実景に修正されてゆくにちがいない。要するに、想像力とは、その修正能力のことで有り、文の喚起する表象に合わせようと実景に合わせようと同じようなものかも知れないわけである。
ここ数日、小林秀雄読んでてつい思ったのだが、文学をやっているとその読み方の解像度でものをみるので、現実の見方が変わることはたしかだが、小説において書かれていないことと、現実において見えないことは同じじゃないんで、感覚が狂うとしたらその盲点の処理の仕方なんだよなと思ったのである。もっとも、更級日記に限らず、そういう盲点や死角は別の何かよって代補せられているから、我々の頭の中ではあまり深刻なエラーとならない場合がある。
「宇治中尉か」
そして窓の方に顔をあげながら苦しそうに眼を閉じ、椅子の背に肩を落した。
「――実は今日、花田軍医のところに連絡に行って貰いたいのだ。花田が何処にいるか、場所は判っているだろうな」
彼の返事を待たず、椅子をぎいと軋ませ隊長は身体ごと彼の方に向きなおった。そして激しく口早に言った。
「射殺して来い。おれの命令だ」
――梅崎春生「日の果て」
ここで、読者が宇治と聞いて源氏物語を思い出してしまったときは大変だが。