二十三日、はかなく雲煙になす夜、去年の秋、いみじくしたてかしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣の上にゆゆしげなる物を着て、車の供に泣く泣く歩み出でて行くを見出して、思ひ出づる心地、すべてたとへむかたなきままに、やがて夢路にまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし
一体何に喩えてよいのか、という記述が、夢の中を彷徨うという言い方に結びつくのは本質的かもしれない。比喩の失調が問題だ、しかし、そもそも比喩などで人の死への思いは表すことはできない。だから、あの人は見ているに違いないわ、みたいな言い方しかできないのであった。
もっとも、このお嬢さんがもっとある意味症状がひどい人であったなら、自分の不幸をもっと大げさに言ったりするものかも知れない。比喩の失調に自覚的なのだからかなりましである。そのかわり、本人は、ひどく自分が平凡な矮小な存在であることを思い知ることになる。
西の空うち見やれば二つの小さき星、ひくく地にたれて薄き光を放てり、しばらくして東の空金色に染まり、かの星の光自から消えて、地平線の上に現われし連山の影黛のごとく峰々に戴く雪の色は夢よりも淡し、詩人が心は恍惚の境に鎔け、その目には涙あふれぬ。これ壮年の者ならでは知らぬ涙にて、この涙のむ者は地上にて望むもかいなき自由にあこがる。しかるに壮年の人よりこの涙を誘うもののうちにても、天外にそびゆる高峰の雪の淡々しく恋の夢路を俤に写したらんごときに若くものあらじ。
詩人は声はり上げて『わが心高原にあり』をうたい、『いざ去らば雪をいただく高峰』の句に至りて、その声ひときわ高く、その目は遠く連山の方を見やりて恋うるがごとく、憤るがごとく、肩に垂るる黒髪風にゆらぎ昇る旭に全身かがやけば、蒼空をかざして立てる彼が姿はさながら自由の化身とも見えにき。
――独歩「星」
夢路とは、自由や何やらの理想の道であることがある。それを近代社会は教えてくれたが、理想が自由といったぼんやりとした明晰さを持っている時代は短く、どちらかというと、法律の様なものへと変容してしまった。こうなったら、もう更級日記の世界に逆戻りである。我々は、内部か外部のどちらかをまずは切り捨てることによってある領域を作り上げ、ついで何者かの夢への侵入によって「夢路」のようなものを感じている弱者として転落する。