★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

品=批評

2021-05-17 23:35:59 | 文学


いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ。みかどの御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやむごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など賜はるきははゆゆしと見ゆ。その子うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、程につけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口をし。
[…]
品かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか賢きより賢きにも移さば移らざらむ。かたち、心ざまよき人も、才なくなりぬれば、品くだり、顔にくさげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ本意なきわざなれ。
 ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、管弦の道。また有識に公事の方、人の鏡ならむこそいみじかるべけれ。手などつたなからず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ男はよけれ。


徒然草というのは名文と言われるが、訳そうとするといろいろと冗長になりそうな気がする。うまい具合に、この圧縮された悪口を圧縮された気分のまま訳そうとするんだが、うまくいかない。

もしかしたら、底に流れるのが一種の怨恨だからではないかと思うのである。長明が一生懸命自分も川の様になりたしと思ってぼんやりしようとしているのに、兼好はつれづれになってみたら次から次へとあいつは下品だ、生まれもよくない、天皇になりたいのかあいつは頭おかしいのか、みたいなことが次々に浮かんできてそれを抽象化して道徳みたいに書こうとするからこうなるのではないか。彼の頭のなかには具体的なあいつやあいつが浮かんでいる。結局、品性と学識、身分がどのような関係にあるのかは、客観的にはどうでもいいのだ。いい気になっているやつの自己欺瞞を暴きたいのである。

「ありたき事」として、並べてたてているものがずべて揃うのは難しいのであろうが――、そして現実には何処か苦手なものがあって揃わない人物たちが健康の頭には浮かんでいたに相違ないが、たとえ条件が揃っていたとしても、「身分が低いよね」、「結局、天皇家と関係なよね」「品がないよね」と前から読んできた読者は文句をつける準備が出来ている。たしかに「批評家の魂」の誕生である。

上の引用で[…]の部分には、僧侶の事が書いてあって、ここだけちょっと前後に対して浮いている気がする。やはり自分の扱いに作者が困っているようにわたくしには思えた。

 人間にたいがいの事が可能でありうるように、人間についての批評も、たいがいの事に根がありうるものである。だから蝮論客の怪気焔にも根はあざやかに具り、たゞ、無数の根から一つの根をとりだすには、御当人の品性や頭の問題が残るだけの話である。

――坂口安吾「志賀直哉に文学の問題はない」


わたくしは、品性の問題に関しては安吾に賛成である。品性は自分の根に対してどう振る舞うかにかかっている。