世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足、はだへなどの清らに肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。
久米の仙人が川で洗濯している女人の脛を見て空中から落下したのは有名である。まず、なぜお前は浮んでいたのかと言いたい。ホントに浮かんでおったのかと。
だいたい、仙人と雖も、大概は女人のことばかり考えているのであって、ただたんに惚れた女に出会っただけであるのを、空中から落ちた的な話にしているのではなかったか。お前は空中から落ちたのではなく恋に落ちたのである。
――という自明の理を回避すると、やれ匂いがよかっただの、膚が清らかで脂がのっているだのと余計手前の獣性をやや人工的にさらけ出しすことになるのであった。色香に迷っているのではなく、精神の堕落である。坂口安吾が言っていた様に、恋が恋として表明される様になることによって、大概の男の「エロ親父化」は防げる側面がある。兼好もそれに失敗している模様である。
「青葉になりゆくまで、よろづにたゞ心をのみぞなやます」というような文句でも、国語の先生の講義ではとても述べられない俳諧がある。同じことを云った人が以前に何人あろうがそんなことは問題にならない。この文句が『徒然草』の中のこの場所にあって始めて生きて、そうして俳諧となるのである。ここで自分のいわゆる俳諧は心の自由、眼の自由によってのみ得られるものなのである。
兼好はこの書の中で色々の場所で心の自由を説いている。
――寺田寅彦「徒然草の鑑賞」
確かに、精神が堕落しても、文章は死なないことはあり得るであろう。小林秀雄のように、文章を鏡として摂取してしまえばそれでよいかもしれない。安吾は確かに実生活に拘りすぎているところがあったようだ。