世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。道々の物の上手のいみじきことなど、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに神のごとくに言へども、道知れる人はさらに信も起こさず。音に聞くと見る時とは、何ごとも変はるものなり。
それはそうであるが、実際に「見」ることによる勘違いの方も重要である。
今日昼間にテレビをつけた。ヤクルトの選手がホームランを打ったところでした。中日負けました。どうみてもわたくしのせいです。
我々の感じる因果なんて所詮こんなものがほとんどなのだ。しかし、だから面白いとも言えるのである。心の中での因果というものがある。親子関係なんかはほぼこの因果関係を想像することによって成り立っている。子どもがどんな風に育ちあがってしまったとしても、親のせいではないし、教師のせいでもない。一見、因果が見えるように思っても、勘違いで、昨今のいわゆるエビデンスがほぼ嘘であるのと同じである。だからといって、この因果は我々を支えている。そして、支えている以上のことをやろうとするとぎくしゃくするわけである。
子どもが現実で関係させられている因果のなかでは、親とのものはごく僅かである。しかし、とくに生まれたての頃なんか、ほとんど世の中と親の区別はついておらず、親にとってもそうなのであった。たまにそうでもない人間がいて、子どもをほっぽり出したりするので、「三つ子の魂百までも」なんて説教でそういう人を縛ったりするが……。
いずれにせよ、お互いに眼を覚まさせるような出来事はつぎつぎに起こる。このような事態は、おそらく、常識としてあったはずなのだが、最近は、親子がお互いに作用を最大限及ぼそうとし、及ぼしてると思っている。おそらく、家が外側と区別された巨大な子宮状態であるからじゃないだろうか。この形式論理をお互いぶつけ合うような状態は、お互いがオブジェクトの作用体であるような認識を生んで繊細にはなるのだが、主観的にもなる。
このごろ、短歌の上で虚構の問題が大分取り扱はれて來た。文學に虚構といふことは、昔から認められてゐた。日本文學では、それを繪空事・歌虚言などゝ言つて、文學には嘘の伴ふものだといふことを、はつきり知つてゐた。寧、藝術は嘘で成り立つてゐる。其肝腎の部分は嘘だと言つてゐる。だから昔の人は藝術には信頼せず、作家にしても、戲作などゝ自分自身を輕蔑してゐた。今言はれてゐる虚構といふことも、此態度の延長に過ぎない。
――折口信夫「文学に於ける虚構」
確かに、虚構の意識が、戯作者ではなく、芸人に占領されてしまったのはまずかった。