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とにもかくにも、虚言多き世なり。たゞ、常にある、珍らしからぬ事のまゝに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。
仏神の不思議な話や高僧の伝記などについては、世俗の虚言と同じように扱ってはならないのであって、信じ込むのは無論おかしいしだからといって「そんなはずない」と切り捨てるのもよくない。信に偏せず、かつ疑い嘲るべきものでもない、というわけであろうか。しかし、このような一般論は一概に真とは言い切れない。我々が宗教的なものに信を感じるときには、何か、ショスタコービチの交響曲にユダヤメロディが引用されていたときのような状況があるのであり、兼好法師は、そういうことがあるかもしれないという予感を感じているだけなのではないだろうか。
我々は宗教教育を禁じられ信に偏しない代わりに、疑い嘲るべきものでもないといいながらどうしていいのかわからない兼好法師のような状態に置かれやすいというのはあるとおもう。エッセイ文化が持続するには条件が必要なのである。
ここに自ら真実を悟るに師を要すると同時に、その真実を更に他に回施するに、それぞれ自己に固有の真実を自覚する主体(すなわちいわゆる実存)が、個別的にしてしかも普遍的なる真実に対応してモナドロジー的に実存協同を形造るべきゆえんがある。自己は死んでも、互に愛によって結ばれた実存は、他において回施のためにはたらくそのはたらきにより、自己の生死を超ゆる実存協同において復活し、永遠に参ずることが、外ならぬその回施を受けた実存によって信証せられるのである。死復活というのは死者その人に直接起る客観的事件ではなく、愛に依って結ばれその死者によってはたらかれることを、自己において信証するところの生者に対して、間接的に自覚せられる交互媒介事態たるのである。しかもその媒介を通じて先人の遺した真実を学び、それに感謝してその真実を普遍即個別なるものとして後進に回施するのが、すなわち実存協同に外ならない。この協同において個々の実存は死にながら復活して、永遠の絶対無即愛に摂取せられると同時に、その媒介となって自らそれに参加協同する。
――田邊元「メメント・モリ」
しかし、死者にも自由がある。生者が死者に愛を感じているからといって、死んだ方がそうとは限らないのである。だからその「実存協同」とかいうのは甘いのと言うのだ。これは、死んだ弟が兄貴を勝手に霊として助けに来てしまったりする「タッチ」と同様の発想で、死者の実存、――いや単に気持ちを大胆に無視することによってなりたっている。
ショスタコービッチは、死んだユダヤ人たちと「実存協同」して交響曲第九番を書いたのではない。