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今様の事どものめづらしきを、言ひひろめ、もてなすこそ、又うけられぬ。世にことふりたるまで知らぬ人は、心にくし。いまさらの人などのある時、ここもとに言ひつけたることぐさ、ものの名など、心得たるどち、片端言ひかはし、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世なれず、よからぬ人の、必ずある事なり。
「今様の事どものめづらしきを、言ひひろめ、もてなす」連中がダメなのは当たり前のことである。「うけられぬ」などと問題を主観化している兼好法師は生ぬるいと思う。簡単に馬鹿とか頭がおかしいといえばいい話である。そして、「世にことふりたるまで知らぬ人は、心にくし」という感想がなぜ一方で生まれるのか、であるが、つまり――そのあとの記述から判断するに、兼好法師は、事態の部分だけで盛り上がれる馬鹿を馬鹿にしているのだと思われる。つまり、騒ぎが収まってから気付く人や、「片端」だけでない全体を把握することこそが「世なれ」ることではなかろうか、というわけである。
確かに、言葉にしてもニュースにしても、一部の認識であるので、全体性からむしろ離れることである。そしてそれが新規性と錯覚され、それがコミュニケーションのきっかけとなり仲間内を形成する。アカデミズムでさえ、というより新規性にこだわるその業界だからこそ、そうなることはよく知られていよう。
やがて、主人のあひるさんが立ち上つて言ひました。「皆さん、どうも今夜はわざわざおいで下さつてありがたう存じました。ところが、さつきから見てゐますと、お猫さんとお黒さんは少しもおごち走をめし上がりません。さあ、どうぞ御遠慮なく。」と申しました。すると、他のお客様までが一緒になつて、
「さあ、どうぞ、どうぞ。」と言つて、おごち走を二匹の前へ集めました。
二匹は顔を見合はせて泣き出しさうにしました。しかし仕方がありません。真赤な顔をして泥だらけの手を出して、おごち走を頂きました、一人のこらずのお客様が見てゐるなかで。
すると一人のお客様が言ひました。
「まあ、お二人のお手のきれいなこと!!」
――村山壽子「お猫さん」
同じ見合わせでもこちらはよろしいのではないだろうか。最近は、見合わせといったことでも我々は動物的に、ロボット的になっている。