かつ顕るるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて浮きたることと聞こゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく、ところどころうちおぼめき、よく知らぬ由して、さりながら、つまづま、合はせて語る虚言は、恐ろしきことなり。わがため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり「さもなかりしものを。」と言はんも詮なくて、聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。
日本における「嘘」がどのようなもんであるのか、小学校以来誰もが考えた問題であるにも関わらず、私の勉強不足なのか、眼の覚める認識というものがいまだないような気がする。今日は、授業で、坂口安吾の「堕落」と道徳の関係について考えたが、安吾の気合いにも関わらず、上の嘘の問題のような単純なものに対しても我々はまだ格闘していない状態なのではないか。虚実皮膜の問題が云々されながら、我々の文化の中心に位置しているにも関わらずとても扱いにくい。
もしかしたら、京都学派の問題なんかもこういうところにあるのかもしれない。
多少のアブセンス・オブ・マインドというのは、誰にもあることである。あるのが普通といってよかろう。しかし私は可なり念入のアブセンス・オブ・マインドをやったことがある。今に思出しても、自分で可笑しくなるのである。
――西田幾多郎「アブセンス・オブ・マインド」
放心状態は確かに放心であり、おかしいものかもしれないが、放心は何か受け身の行為だけとは限らない。放心はほんとうに放心と言えるのか。行為の原因をはじめるやいなや、我々はそこに放心以外のものを見出すしかない。しかもそれは虚偽であり、我々は更なる放心状態のなかで嘘をつく。