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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

自我空間の誕生と死

2021-06-15 23:53:45 | 文学


久しく隔たりて会ひたる人の、わが方にありつること、数々に残りなく語り続くるこそ、 あひなけれ。隔てなく慣れぬる人も、ほど経て見るは、はづかしからぬかは。 つぎさまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつることとて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、 おのづから人も聞くにこそあれ。よからぬ人は、たれともなく、あまたの中にうち出でて、 見ることのやうに語りなせば、みな同じく笑ひののしる、いとらうがはし。をかしきことを言ひてもいたく興ぜぬと、興なきことを言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。人のみざまのよしあし、才ある人はそのことなど定め合へるに、おのが身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。

そりゃそうなのだが、――こんな風に感じるということは、われわれの社交上の礼儀というより知性の程度に問題があるからだ。わたくしは、兼好法師の言うようにそれが「品」の問題だとは思わないのである。

自己肯定感の議論はTVでも盛んに喧伝されるようになったが、いつもただ自分を肯定しようとすると、何も無いから自己を否定せざるを得なくなるパラドックスを処理しきれずに、もっと寄り添え、強く肯定せよ、という悪循環にはまり込む。自己肯定とは、自分のいまいちなところ、知らないこと、失敗したこと、などを勇気を持って並べはてその自己の巨大な滑稽な罪深さを自覚、ではなく、そのまま放置することによってその巨大に膨らんだ一種の自我空間によって成される気がするのである。上の品のない輩も、どうせ、そこまで巨大になる勇気がない自分を肯定しようとして「おのが身にひきかけ」ることしかできなくなっている。だから、しゃべり続けるしかなくなるのである。

今日は『木曽教育百年史』で、木曽に終戦直後に講演にやってきた大学人や文学者などを調べていたが、敗戦後の木曽でも、「日本の再建の道は民族の教養を高めることによってのみ開けてくる。」(木曽教育会長 川口五男人)といわれていて、まずは「学者を尊重」せよということで、いろんな学者や文学者を呼んできて講演をさせていた。長野県はよく知られているように、安曇野出身の哲学者務臺理作のがんばりで、京都学派との繋がりがあったが、木曽教育会の講演会によく来てたのは、ヘーゲル研究の金子武蔵や、亀井勝一郎である。敗戦直後、たしか山梨にいた矢内原忠雄は、福島国民学校(福島小学校・わたくしや父が出た学校である)で「日本精神への反省」と題して講演したが、これが彼の戦後の第一声だったらしい。彼が逐われていた東大に復職する前の出来事である。『百年誌』によると、矢内原はこう言っていた。

「谷は夕暮れが早くて夜明けが遅い所でありますが、太平洋戦争後の新しい日本の黎明が、少なくとも私に関する限りは長野県の木曽から始まる、どうかそういう事であってほしい。諸君の魂の中に新しい日本の覚醒と黎明が始まって頂きたい。」


日本がまるで木曽のような所だというのは、「夜明け前」が示すとおりであって、矢内原にとっては格好の出発地だったのである。福島小学校の背後に迫っている山をみて矢内原はどういう気持ちだったのであろう。敗戦後の日本は、破壊でぺんぺん草がはえない空虚だったのではない。自分の行為が否定性にすべて反転した、巨大な自我空間状態であったのである。だから、学者を尊重せよ、教養を高めよ、という自己肯定的出発が可能なだったのである。

矢内原のキリスト教は、教育会のなかの「女教員会」にも影響を与えており、男女が平等の教職員組合の成立によって、その会が解散するときに抵抗があった話も面白かった。戦後の出発は、それが「肯定」的な過程として進行するにつれて、もともとあった罪障感や否定性の独自性を失っていった。