
仁和寺にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
むかしは、なんとも思わなかったが、いまはこういうことを言って悦に入っておる兼好法師はけしからんと思う。こういう有り難い間違いをしでかす法師がいるから、当時の寺と有名神社の関係性がどのようなものであるのか、われわれが勝手な推測をすることが出来るというものである。我々は屡々、過去の人間を明晰な人間達にみなしたがるが、常識的なことでも知らないことは知らない人間たちに過ぎないのであった。それに、別に八幡にいかなくてはならぬということはない。極楽寺・高良神社で十分ではないか。神仏習合しているくせに、その「集合」の全体に拘る癖が我々は抜けない。信仰は収集として表現されるのである。
わたくしの神社を訪ねるシリーズも、かかる観点に基づき、讃岐の名神大社「田村神社」に行っておらぬ。もう律令体制ではないしいいではないか。
八幡太郎の名はその後ますます高くなって、しまいには鳥けだものまでその名を聞いて恐れたといわれるほどになりました。
ある時、天子さまの御所に毎晩不思議な魔物が現れて、その現れる時刻になると、天子さまは急にお熱が出て、おこりというはげしい病をお病みになりました。そこで、八幡太郎においいつけになって、御所の警固をさせることになりました。義家は仰せをうけると、すぐ鎧直垂に身を固めて、弓矢をもって御所のお庭のまん中に立って見張りをしていました。真夜中すぎになって、いつものとおり天子さまがおこりをお病みになる刻限になりました。義家はまっくらなお庭の上につっ立って、魔物の来ると思われる方角をきっとにらみつけながら、弓絃をぴん、ぴん、ぴんと三度まで鳴らしました。そして、
「八幡太郎義家。」
と大きな声で名のりました。するとそれなりすっと魔物は消えて、天子さまの御病気はきれいになおってしまいました。
――楠山正雄「八幡太郎」
収集が出来ないばあいには、その言葉に力があることにして嘘をつき始めるのが我々である。その不可能性が証明されると、神社巡りやお寺巡りを始めて数で空白を埋めようとする。その空白の存在を認めざるを獲ないときには、それを「無常」とか言い換える。