
人の亡きあとばかり悲しきはなし。中陰のほど、山里などに移ろひて、便悪しく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心慌たたし。日数の早く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情けなう、互ひに言ふこともなく、我かしこげに物ひきしたため、散り散りに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。「しかしかのことはあなかしこ、あとのため忌むなることぞ。」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたておぼゆれ。
結婚式とか葬式が、死んだ人やあらたに入ってきた人のつくるある種のオブジェみたいな感覚を意味で埋めようとするのか、人間関係の再編成を測りたいのか知らないが――なぜか家族ではなく客達が余分なことを言ってしまうのは昔からであった。実に不思議である。ああいう儀式はやるだけ意味があると言われ続けているんだが、一族郎党をむしろ分解するための意味であるかも知れないのである。
人が死んだり、誰かと結婚することで、一族達はばらばらになるきっかけを得る。それを言わずにきっかけを得るのである。それでも、完全に縁を切るのは生存のために危険だということで、石をモニュメントとして置いたり、派手に贈り物を贈りあったりする。――しかし結局は、告別の儀式なのである。最近は、家族でもやたらものを送りあったりするが、コミュニティの崩壊はここまで来たかという感じだ。
告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。もっとも、そういうことに、こだわることも、あるいは、無意味かも知れない。
私が人の葬儀に出席しないというのは、こだわるからでなく、全然そんなことが念頭にないからで、吾関せず、それだけのことにすぎない。
もっとも、法要というようなものは、ひとつのたのしい酒席という意味で、よろしいと思っている。
――坂口安吾「私の葬式」
安吾は優しい人なので、結局たのしい酒席を否定できなかった。これこそが、一番の虚礼のメインなのに。安吾は、結局、葬式や結婚式に出席する人間の気持ちを代弁してしまってるのではないだろうか。
そういえば、日本の文壇に限らず、お酒が入った座談というのは、その壇の花のひとつである。最近では東浩紀氏の中心とする「シラス」なんていうのも、出席者がずっと飲んでる。見事なプラットフォームである、――しかし若干心配なのは、それが一種の告別の機能みたいなものをもっていやしないだろうかということだ。