★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

力持ちの魂と肉体

2022-10-01 16:01:08 | 文学


大佛一代。むねんにおもふうちに。男子ひとり。もふけぬるに。おとなしくなる事をまちかね。はや取立の時分より。六尺三寸の棒を持ならはせ。三歳の時は。はや一斗の米をあぐる。それより段々仕込。八歳の春の比。手なれし牛の。子をうみけるに。荒神の宮めぐりもすぎて。やうやううしの子もかたまり。我と草村に。かけまはるを。とらへてはじめて。かたげさせけるに。何の仔細もなく持ければ。毎日三度づゝかたげしに。次第にうしは。車引ほどになれども。そもそもより持つゞけぬれば。九歳時もとらへて。中ざしにするを。見る人興を覚しぬ。

アントニオ猪木が亡くなった。力持ちであった。彼はビンタをして魂を注入するみたいなショーで人を沸かせた。戦後の問題が、体と魂の問題であることを分かっていたわけである。

大谷翔平さんがこの調子でヘーゲルの新解釈とかやりはじめたら、もう我々は死ぬしかない。魂で勝負しようとする人種の目の上のたんこぶがスポーツ選手である。大谷氏は童顔なので、学者達はさすがに思想は子どもだろうと大谷氏を見くびっているのかも知れないが、そうとは限らないことを知っているのは学者達本人である。体調がよくないと魂が死ぬことを彼らほど知っている人種もいないからである。

宇多田ヒカルの「花束を君に」が朝流れていた年は、わたしの人生も「底3.0」みたいな気がした。絶対朝それを聞いていたからであろう。宇多田氏のように、魂を歌うことの出来る人たちは、歌えなくなったら死ぬのであろうか。宇多田氏は途中で「人間活動をする」と言って歌手を中断したことがあったが、母親の自殺はそれへの反論のようであった。

教育実習参観に行ってら、低学年の子どもの動きの方が自分の動きに近いと思った。これははじめての感想で、たぶんこちらの老化が原因だ。アカデミックな場が老教授みたいなもので表象されることがあるように、どことなく老人性?みたいなものは学校には必要なんだと言っても、この感覚も滅びつつある。学者達は魂であることをあきらめ、生活に復帰してしまっている。肉体の衰えは単なる衰えになってしまう。小学校1年生の国語の教科書に載ってる「かいがら」という作品がある。かわいい友達のために自分が好きなかいがらをプレゼントし、二人で海の音を聞く話である。小学生はどう感じるか知らないが、こういう話を読むと、中年以降の魂にとって、心ではなく五臓六腑が泣くような気がする。

東浩紀氏が、家族などが被害に遭った当事者にとって正義の怒りを持つのは許されるし義務でもあるが、そうではない場合はいろいろな事情を考えてしまうことは当然だし、そうあるべきだと言っていた。東氏の言っている正義の怒りは肉体的な感覚に依存している。氏は肉体的な人である。東氏の文章読んで、そういえばおれは子どもの頃から当事者感覚があんまりなく、当事者になった時になにか主張がハッキリするとはあんまり思えないところがある、と思った。これは小さい頃の病気のせいで、その当事者であることから逃避したかった感覚に関係ある気がする。永遠に傍観者的であることが健康であるような気がしてしまうのである。

自分の体が意図通りに動くか、みたいなことはスポーツだけじゃなく仕事にもいえる。やはり若い頃練習した方が勝つのは本当である。しかしその練習によって実現するものは、案外小さい側面に過ぎない。大谷や落合だって、全体がうまく作動しているのではなく、いつもすぐ実現するある核を中心に作動している。大概のひとにとっては、得意なことというのはほんの小さいところにしかないが、それがないと体は動かないのである。仕事のマニュアルがしばしばうまくいかないのは、要素を組み合わせればうまくいくみたいな思想だからである。積み木は人間にならない。わたしは、その意味で、デジタル化・マニュアル化された「人生百年」といったものより、「**バカ一代」みたいな考え方の方が、高度な知恵だと思うのである。

そういえば、小学校の担任の先生(牛丸先生)がプロレスを嫌ってて、「暴力の見世物で嘘が混じってるから」というのがだいたいの理由だった。たぶん、戦中派の先生にとって、戦争の暴力体験から、プロレス的なものの隆盛が戦後の暴力の隠蔽=平和の「嘘」くささにみえていたところがあるかもしれない。そりゃまあ戦後の娯楽は嘘の暴力をどこまで本当らしくするかの世界なわけであった(野球の「乱闘」というのも一種のプロレスだった)。戦前の武士道的チャンバラとはちょっと意味が違っていた。たしかに先生の小説は徹底的に暴力が排されていた。しかし、平和思想が非常に観念化したり、その反動があったりする現象が戦後の良心的な人々のなかにあったことは確かである。その矛盾は、平和的な暴力を身体で表現出来てしまうプロレスに太刀打ち出来ない。

わたしはあまりプロレスは好きじゃなく、マッチョマンが鉄の玉投げたりする方が好きだ。それのほうが肉体と魂が調和している気がするからである。が、学問の世界にはよくわからんが結構なプロレス好きがいるのでこれは一体どういうことなのか分からなかった。おそらく、学問というのは喧嘩というよりプロレスみたいなところがあるのだと思う。対して、小説の創作は、鉄の玉を投げる方である。