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聞く人、涙にくれて、「この藤助が身の難儀は、皆、親の言葉に背きし、罰ならん」と、おもひやりぬ。
親の言葉に背いたことがすべての不幸の原因でないことぐらいみんな知っているわけであるが、そう言ってしまうことで、かえって、その因果の関係に不可思議さがまじり、それ自体力があるように感じられるということはあると思う。首相でも王様でもなんでも、理屈を越えた理不尽さが「オーラ」を発生させる。野球のヒーローでも、その人の体の動きが、成績に比して何か余剰を感じさせることが、かえってその何者かを強調する。その数字のすごさとそれに対する表象の関係が不明なことが、相乗効果のように何かを存在させてしまう。
大谷選手は、――そもそも体がでかかった。
積読でなにかが生まれるのなら、とっくに俺のマルクス主義関係の棚から革命が勃発してもよいはずだが、そうはならない。そのかわりに、何かが累積したような錯覚が起きる。これがなにか実績に対するごとき心理的な安定をもたらし、つい調子に乗って勉強してしまうのが、積読をしてしまうひとたちの習性なのではなかろうか。
今の世の中、だいたいふざけた連中を注意したり怒ったりする勇気のないやつが自己合理化をはかった結果でできていて、いくら弱者のふりをしようともそれは正義ではなく勇気がなかったことを示すに過ぎない。ここにだって、確かに余剰がある。勇気のないことは単なる心の状態だが、合理化は積ん読のように増えていってしまう。我々の勇気のなさをなめてはいけない。もはやその起源を忘れるほど無駄に知的になっているのが我々であって、――かくして、命をかけて存在意味があるだろうヤクザから、その悪巧みが存在している時点からその存在意義がありほんとに悪さをすればただの犯罪者であるところの「詐欺師」に我々の顔つきは変わってしまっている。
そういえば、我々はそもそもヤクザから詐欺師へ成長するものかもしれない。わたしは幼児の頃、マジンガーZのおもちゃと一緒に生活していていつも便所以外はいつも一緒であった。その気分も少しは感覚的には覚えている。成長とともにそんなものとは縁を切っていると思っているが、本当にそうであろうか。もっと厄介な我々自身を欺すものと一緒に生活している、過去の記憶とか自分とか、である。こうやって自らを欺き我々は、マジンガーを乗り回す乱暴者から詐欺師へ転落する。