早晩国の地位を判断するには正義人道を以てする時が来るのである。近頃は何れの国でもその心事を隠すことが出来ない、国民の考えていること、政府の為したことは、殆ど総て少時間の後に暴露し、列国環視の目的物となる。そこで世界の各国が一国を判断する時には、その言うこと為すことの是非曲直を以て判断する、あるいはその代表者が如何なる言を発したか、如何なる行動を執ったかによりて判断する、またある国が卑劣であり、姑息であり、陰険であり、または馬鹿げたことをすれば、それは直に世界に知れ渡るのである。従てある国が世界のため、人道のために如何なる貢献をなしたかは、その国を重くしその威厳を増す理由となる。国がその位地を高めるものは人類一般即ち世界文明のために何を貢献するかという所に帰着する傾向が著しくなりつつある。
――新渡戸稲造「真の愛国心」
昨日、「教育と愛国」という映画を見てきた。描かれている一つ一つの事例はかなりニュースになったものばかりであり、吉村知事が問題にしした、大坂の先生のインタビュー以外はどこかで聞いたことのあるような情報であるといえばそうであった。より重大なのは、この20年間教育を受けてきた側と教壇に立ってきた人間の変化であると思われる。一部の政治家や学者がバカ――というより軽薄なのは当たり前のことだ。そんなことにいちいちびっくりしている暇はない。
問題の中心は、軽薄さである。世の中のいじめや厭がらせはつねに軽薄さで性格づけられる。その軽薄さは問題をやり過ごしそれを私的な利益とすり替えることだがそれは少しでもまじめに論理を追っては不可能である。そして一人でも無理なので、おおくはボスの倫理が緩くなることによって集団的な現象としておこる。最近は、不真面目にも、それが被害者やいじめられた側を病人認定してケアすることで肝心の問題をスルーしようというきたない連中まで現れるしまつである。原因ではなく発症自体を問題として扱うその態度は、仮に真面目に見えても軽薄である。