堕落せよ、男子が堕落しつつある間どこまでも平等に平行線をなして堕落せよ。女学生の堕落や質は進化にして誠に以て讃美すべしとせん、讃美すべきかな。
――北一輝「国体論及び純正社会主義」
そういえば、坂口安吾の堕落はどこか抽象的な感じがするけれども、こちらは男女の――よけい抽象性があるのかもしれない。確かに堕落や落下で平等は実現するというのはあるわな。優とか秀とかはあるが、不可は平等であるからして。
さんざいわれてることだが、近代文学が近世文学のあとで、あらためて、近い過去の作品を読み直して始まったことはすごく重要なことであった。遠い過去から出発するがごとき「王政復古」としての「近代化」は、近い過去の文学の読み直し(というか、だいたいの人は初めて読んだ)から始まった。否定すべきものなのかもしれないものから出発したのであり、結果的に文体においても内容(倫理的感覚)においても近代文学は亜近世文学的側面が強いという側面がある。時代順だから当然なことに見えるがそうでもない。進化というより本質的らしい理由を掲げての改良だったので、時代はどうでもよかったはずなのである。対して、ある意味で、「王政復古」は初等教育なんかできちんと復活したので、文学は、それと対峙させられる。ここには、堕落すりゃいいとか生に正しく落ちぶれるみたいなモメントが発生しにくい。それは、学校教育的には正規のルートから外れた安吾みたいな人しかいえなかった。「破戒」の作者は、そこまでいかず「破戒」を繰り返すことに終始したようにみえる。それはモラルから堕落でありモラルへの堕落でもあって、あっちの木からこっちの着に飛び移る動作である。
北一輝のように堕落の果てになにか天皇や社会主義が待っているような気になる人もいるかも知れないが、彼らは多くない。
われわれは、社会か家庭かみたいなところまで追いつめられている。学校化が余りに進みすぎたせいであろう。「実践的な研究みたいな研究」がいやなのは実践そのものの報告に嘘が混じるということもあるが、参照物として大物が引かれて「おいっ」という感じがするからである。おまえはソクラテスじゃねえよ、ルーマンじゃねえと。まだマルクス盲信いたす突撃しますのほうが人間として友達になれそうである。しかしその盲信突撃の人が社会にも家庭にも居場所がないのだ。つまり、哲学や文藝批評に行って一生人文ナントカを伴侶にするつもりの人が、いまや家庭向きという感じがするのだ。哲学や文学に人肌を感じる感覚の面白い人だから、そしてそれは家庭生活とあんまりかわらないのである。よって、非婚や少子高齢化に歯止めをかけるためには、合理的に人生を快感を軸に幸福にしようとするサイエンスでは逆効果であり、プラトンやランボーの文章で興奮する変態的な人こそを生産した方がいい。
むろん、それでは駄目なのである。おれもむかしやらかしたことあって切腹したいけど、――対話が大事とか言いたいためにソクラテスやプラトン引くひと、あれだよな。人類の頂点的頭脳が対話したからといって、お前が対話しても何もでてこんわ。このおかしさが、学問への執着が人肌への執着と化したおかしさなのである。
おれが文学部入って、文芸批評のロジックについて研究したいとかあほなこと言ってたころショックを受けたのは、柄谷行人の「畏怖する人間」に性的なものを覚えると言ってた女子がいたからだ。こりゃとんでもないところに来たぞとおもった。むかし宮台真司氏が、「文学少女はエロティックでいいよね」とか言っていたが、まあそういう意味で真実にみえる。がっ、私の経験だと文学少女は逆鱗のポイントも言葉の世界にあるのでエロティックだからいいよねではすまない。だいたい文学少年たる自分を内省してみりゃわかる。柄谷氏の初期評論は果たしてエロティックなのであろうか。どうもそう思えないのである。柄谷氏がなにか美男子だったという単純な理由なのかも知れないなら、それでもいいのだ。我々はそうすると、自分のエロティックな部分から独創性を発揮しなければいけないのであろうか。わたくしは、正直なところ、LGBTQの議論もそういう危うさと困難を持っていると思うのである。