
夫人は、ロボットの手から、腕を抜こうとした。男は、肩の骨の上から抱えられて、右手で、ベッドの枠を握りながら、全身の力で、抜出そうともがいていた。夫人は、脚で、空を蹴ったり、ロボットを蹴ったり、顔を歪めて、恐怖の眼を剥出して、
「誰か、誰か――来て頂戴。」
と、絶叫した。ロボットは、徐々に、正確に、二人を、締めつけて行った。……………………………………………………………………、二人の骨が痛んだ。
「ああッ――痛い。」
夫人が、叫んだ。その刹那、ロボットが、
「ベッドを汚したからだ。」
と、いった。それは、俊太郎に、よく似た声のように、二人には聞えた。そして、それと同時に、二人は、頭の底へ突刺すような、全身の骨の中までしみ透るような、激痛を感じた。二人は、悲鳴を上げた。
「ロボットの霊魂だ。」
――直木三十五「ロボットとベッドの重量」
マイナポイントに釣られて光速でマイナンバーカード作った人たち、ポイントつければ、社会主義革命でも何でもやるのではないだろうか。かようなおばさんたちが革命の闘士になってブルジョア学者の首を物干し竿にひっかけて踊りまくる図が浮かんだ。ロシア革命の時代はロボット勃興の時代であって、社会主義革命もある程度はロボット的なるものの為業である。だからこそ、上のような怨恨としての「霊魂」もまた単独で復活したのであった。
機械の輝きに対して、我々の思考は虚構に向かっている。学者でも、どこかしらネタ感のあることを言う学者だけが真の学者だった。いままでの経験からして。そしてそれに一見近いネタ学者というのもいる。バットに乗せる勘はよかったが、ファールをホームランと勘違い、堂々3塁にまずは走るみたいな学者である。彼らは観客のブーイングも逆に歓声に聞こえる。かれらは少しずれただけで可能性の中にはいるのである。霊魂は静かにするのをやめて、生成する何者かとなったのである。
一方で、機械の関係は、現実問題として、我々を変形している。我々はもとより対象や相手に即して変形してしまう存在なのであった。我等がロボットみたいになっているのはそのせいであり、そこに自由はない。上のようなロボットによる暴力がない代わりに我々自身が機械に置き換わる。もはや、「自由」みたいな感じは共通基盤や常識の上に実現しやすいと感じられ、その「自由」に対する感覚は持続している感覚とよく似ている。革新も保守も、持続に向かって戦うのである。
最近テニヲハを間違えてないはずなのにワープロ打つ手が間違えて動いていることが多い。年齢を重ねたからもあるけど、もともとそういうもんだというのは、ピアノを練習してた若い頃から知ってたといえば知ってた。そういえば、朝比奈隆とか岩城宏之の演奏って思春期の頃はぴんとこなかったけれども、中年になって、彼らがわりとわたくし自分の妄想演奏に近いことやってるのを発見することがあった。ここでいきなりナショナリストに変貌する人もいるんじゃないだろうか。我々の感覚とは一体何だろうか。