
何やかや取集て。四百色ほどひろひたる。亭主きもをつぶして。珍敷お客と。近所の衆に語れば。是ためしもなき事也。はるばる正直にくだる心ざし。咄しの程に。ひろはせよと。小判五両出し合。ひろはせける。それより次第に。ふつきとなつて。通り町に屋敷を求め。棟にむね門松を立。廣き御江戸の。正月をかさねける。
いまどきは金を拾うのがよしといわれて正直にそれにしたがっていたら、みんなに慕われて大金持ちになったという話である。この場合の「正直」は、自分に正直というのは違い、人の言うことを疑わずにそのまま従ってしまう心のことであるが、あまりにも馬鹿正直なところがかわいく見えてみなかわいがってしまう。
島崎藤村の「破戒」も、友人の銀之助や農民たちや子どもたちは「正直」な人ということになって、どちらかというと素直というかんじなのであるが、――主人公が「正直」さを乾坤一擲の行為として表現するとなると、話は違ってきた。それは社会を立て直すモラルとしての武器である。藤村の新しい言葉とは、その正直な感じと触れあっている。外界のパノラマを内面のように映し出す心は、煩悶する。煩悶とはそういう鏡のような経験なのである。市川崑の映画『破戒』は、宮川一夫のすごいカメラによって、その鏡のような内面を映し出していた。最後のシーン、多くの感情や事物がカメラに映っていた。そしてその向こう側に丑松が去り、我々のほうがその煩悶を部落差別が吹き荒れる世の中として引き受けるのである。
今日は細と間宮祥太郎主演の『破戒』を観てきた。
映画の『二十四の瞳』や『金八先生』を通過したこの世の中では仕方がないのかも知れないが、学校世界は、世の中よりも大きくなった。市川崑の頃までは存在した、学校よりも大きい因習の世界がなくなり、学校が因習となったのだ。そのありかたは『破戒』よりも『坊っちゃん』にちかいものだ。そのあり方は煩悶する間宮氏ではなく、「坊っちゃん」化した矢本悠馬氏の銀之助が支えている。学校世界=世の中の世界では、丑松を画面の向こうに孤独に追いやるわけにはいかず、寄り添わなくてはならない。お志保と一緒に丑松は去るし、画面も明るかった。
劇場は結構嗚咽だらけであったが、この小説の世界に対しては、涙が引っ込んでも泣いている場合ではないのだから、もはや違うものを観客は観ていたのであろう。「二十四の瞳」もそうだけど、映画化の度に表現されなかったことが増えてるのは考えもんだ。現代人にも分かるように、というより問題の単純化がなされている。特に、丑松までもその一部であるところの天皇の帝国主義はまるでなかったことになっている。
そういえば、今回のは『破戒』の初のカラー作品である。カラーになって、ひとつの場面にあるものが増えているというのもあって、画面そのものが重く感じられる。あとあれだな、ステレオ音響というのも、語り手の有り様の変容のレベルで重大な変化だったようにおもえるな。とくにステレオである必要のない映画を見るとそんな気がする。――モノラル・白黒のときの方が人間が容易に画面の黒に溶け込む感じがして、その黒や音が観客を襲う感じだった。だから言外の心理みたいなものが逆に効果的に仄めかしやすいというのはあるかもしれない。しかし、今回はまるで極彩色の絵を見ている感じである。もっとも、明治の文学にあった深刻なテーマと対照的な語りガチャガチャしたかんじはかえってカラー的なのかもしれない。ついに、われわれは明治人が感じていた、「正直」な鏡が映し出すものによって身を裂く煩悶を「見える」ようにしてしまったのかもしれず、それは一つ一つが多く、重く、いちいち見きれない。だから、いろいろなものを省く癖がついているのかも知れない。
しかし言葉は省略出来ない。
斯う言つて、名残を惜む生徒にも同じ意味の言葉を繰返して、やがて丑松は橇に乗らうとした。
『御機嫌よう。』
それが最後にお志保を見た時の丑松の言葉であつた。
蕭条とした岸の柳の枯枝を経てゝ、飯山の町の眺望は右側に展けて居た。対岸に並び接く家々の屋根、ところどころに高い寺院の建築物、今は丘陵のみ残る古城の跡、いづれも雪に包まれて幽かに白く見渡される。天気の好い日には、斯の岸からも望まれる小学校の白壁、蓮華寺の鐘楼、それも霙の空に形を隠した。丑松は二度も三度も振向いて見て、ホツと深い大溜息を吐いた時は、思はず熱い涙が頬を伝つて流れ落ちたのである。橇は雪の上を滑り始めた。