その後は、独り家に残れど、夫になるべき人もなく、五十余歳まで、ある程を皆になし、親の代につかはれし下男を、 妻として、所を立ちさり、片里に引き込み、一日暮しに、男は犬を釣りをれば、おのれは髪の油を売れど、聞き伝へて、これをかはず。けふをおくりかねて、朝の露も、咽を通りかね、目前の限りとなりぬ。花に見し形は、昔に替はり、野沢の岩根に寄り添ひ、身比羅のごとくなりて、死にける。
「本朝二十不孝」は当時の道徳への皮肉であると解する人もあるが、道徳の暴力性は、明らかに理不尽だということが明らかなときにこそ発動するので、いかに西鶴が面従腹背のつもりであろうとも、道徳の書として機能しただろうとわたくしは思う。だから、最近の教科書も同じである。教材が道徳に回収出来ないものであったとしても、それを抑圧する問や目当てが存在する限り、それは道徳的な教材である。
幼稚園の頃から見たドラマを頭の中でもう一回再生みたいなことが得意な方だった気がするけど、まだあるていどいける気がする。大河ドラマでもだいたい再生出来ると思う。若い頃は文章もいけたが、さいきんちょっと覚えが悪くなってる。気のせいかも知れないが、これのおかげで抽象的な設計みたいなのが苦手な気がするのである。――が、それはともかく、この再生能力がつよいことによって、作品を道徳に回収しようとする企図には対抗出来るのかもしれない。内面においては。と、この「内面」とやらを無限な時間として重視するのが近代の純文学であった。内面は一種のストップボタンが壊れた再生装置である。
ただ、これも体が元気なときにこそ再生が可能なので、少し疲れてきてその疲れが過去を照らすようになり、厭世観がつよくなってくるとそれも駄目である。厭世観が昂じるとまずつまらなくなるのはエンターテイメントである。これはほんと、たいがい過去の再生で成り立っているところがあるからだ。まだこれを楽しめるうちはまだ大丈夫である。