★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

道徳と再生装置

2022-10-16 23:08:38 | 文学


その後は、独り家に残れど、夫になるべき人もなく、五十余歳まで、ある程を皆になし、親の代につかはれし下男を、 妻として、所を立ちさり、片里に引き込み、一日暮しに、男は犬を釣りをれば、おのれは髪の油を売れど、聞き伝へて、これをかはず。けふをおくりかねて、朝の露も、咽を通りかね、目前の限りとなりぬ。花に見し形は、昔に替はり、野沢の岩根に寄り添ひ、身比羅のごとくなりて、死にける。

「本朝二十不孝」は当時の道徳への皮肉であると解する人もあるが、道徳の暴力性は、明らかに理不尽だということが明らかなときにこそ発動するので、いかに西鶴が面従腹背のつもりであろうとも、道徳の書として機能しただろうとわたくしは思う。だから、最近の教科書も同じである。教材が道徳に回収出来ないものであったとしても、それを抑圧する問や目当てが存在する限り、それは道徳的な教材である。

幼稚園の頃から見たドラマを頭の中でもう一回再生みたいなことが得意な方だった気がするけど、まだあるていどいける気がする。大河ドラマでもだいたい再生出来ると思う。若い頃は文章もいけたが、さいきんちょっと覚えが悪くなってる。気のせいかも知れないが、これのおかげで抽象的な設計みたいなのが苦手な気がするのである。――が、それはともかく、この再生能力がつよいことによって、作品を道徳に回収しようとする企図には対抗出来るのかもしれない。内面においては。と、この「内面」とやらを無限な時間として重視するのが近代の純文学であった。内面は一種のストップボタンが壊れた再生装置である。

ただ、これも体が元気なときにこそ再生が可能なので、少し疲れてきてその疲れが過去を照らすようになり、厭世観がつよくなってくるとそれも駄目である。厭世観が昂じるとまずつまらなくなるのはエンターテイメントである。これはほんと、たいがい過去の再生で成り立っているところがあるからだ。まだこれを楽しめるうちはまだ大丈夫である。

人生の執行者

2022-10-16 06:29:17 | 文学


しらぬ事とて、是非もなし、文太左衛門は、手近なる撞木町に忍び入りて、正月買ひと浮かれ出し、あまた女郎を聚め七草の日まで、 一歩残らず撒き散らして、不首尾あらはれ渡り、宇治の里に、立退きしが、かの、二人の親の最後所になりて、足すくみ、様々身をもだえしに、眼暗みて、倒れしに、二親の亡骸を食ひし狼、又出て、終夜、嬲り食ひ、大かたならぬ、うきめを見せて、その骨の節々までを、余多の狼くはへて、狼谷の海道ばたに、又、人形を並べ置きて文太左衛門が恥を曝させける。


娘を売った金で年越ししそのうえその息子に金を盗まれて自害した両親は犬に食われた。で、その息子(文太左衛門)も両親が自害した場所でなぜか気分が悪くなり、でてきた犬に嬲られる。犬は、その骨を咥えて人々の通る街道に人型にならべてその恥をさらした。

悪夢というのは悪夢を呼ぶものであるが、怖ろしいのはその悪夢の執行者がだいたい同じであることだ。ここには、世の中の広さや多様性みたいなものはなく、執行者の犬がいるだけだ。

この話はあまり解釈の余地はないように思うが、最後に「天はこれを罰したまふ」とあることでなんとかその執行者の登場のおそろしさを道徳に回収している。これでないと人生やっていけないというのは確かにある。実際、「大不孝者」と呼ばれているとはいえ、この乱暴者の息子の存在は、親にとって、そこらの犬が家の中で暴れるよりもタチが悪い悪夢だったからである。悪夢は終わらせる必要があり、この両親の場合は自害だったが、それが自由意志とかの問題ではないことを死骸を犬が食いちらかすことによって示す。

いつの時代であっても文学の面白さは意味のあやふやさみたいなところにはない。読者は人生のオソロしさを思うから、たしかなものの実在よりは茫洋とした気持ちにはなる。だからそれが曖昧模糊としてみえる気持ちはワからんではない。まずは我々の文化の奥までもぐってゆくと、それが曖昧さではなく、苛烈さの証拠にも見えてくる。近代文学だと、その苛烈さを隠してある場合もあるのだが、それは隠した行為自体がまずは問題になるべきだ。かくれていることで、曖昧になっているんだとしたら、それは人生ではなく表現者の態度が苛烈さを扱いかねていたということではなかろうか。