★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

いらっしゃいませ、こんばんは↑

2022-10-30 19:43:20 | 音楽
Ondrej Adamek -Ca tourne ca bloque


Ondrej Adamek のCa tourne ca bloque(回って止まって)は、結構演奏されているようだ。youtubeに複数の演奏があがっている。この曲は、冒頭、メイド喫茶の店員の言葉と思しき音声から始まっていて、そこに弦楽器が模倣のように同調してゆく。コンビニの店員の言葉とともに、しばしば「ロボットか」と非難されている人間の声が、日常生活と切り離されると音楽と化す。ジョン・ケージが日常の音を音楽として環境にあるそのままに解放しようとしたのに対し、これは逆に日常からうきあがっている人間性を音楽として回収する試みである。これは村田沙耶香の「コンビニ人間」と似ている。この作品は、現代社会ではコンビニがかえってモラルも秩序も整った人間的な場所でありうる可能性を示唆している。主人公は、物語の最終局面で、クズ男の居候をコンビニに入ってきたお客として反射的に遇して、日常生活から解放される。天啓のように、コンビニが彼女を「(コンビニ)人間」にした。その咄嗟に現れるコンビ店員としての声は、まるで歌うようである。「コンビニ人間」は歌う人である。

コンビニやメイド喫茶をはじめとする「いらっしゃいませ」が音楽であるから、論文なども歌って美的であるかを判断される時代が来るかも知れない。近代?では詩だけでなく、黙読されるものとしての論文というものも、ある種特殊なものなのである。

梅本佑利 - 萌え²少女 (2022)


若い梅本氏にとっては、もう「コンビニ人間」のような葛藤もないのかも知れない。アイロニカルな感じがなくなっているからだ。これは、明治の戯作者にあった言葉の表象とシンクロしたリズム感に近いような気がする。

 薔薇の花は頭に咲て活人は絵となる世の中独り文章而已は黴の生えた陳奮翰の四角張りたるに頬返しを附けかね又は舌足らずの物言を学びて口に涎を流すは拙しこれはどうでも言文一途の事だと思立ては矢も楯もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先真闇三宝荒神さまと春のや先生を頼み奉り欠硯に朧の月の雫を受けて墨摺流す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情始末にゆかぬ浮雲めが艶しき月の面影を思い懸なく閉籠て黒白も分かぬ烏夜玉のやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰してこの書の巻端に序するものは

――二葉亭四迷「浮雲」序


大学祭にいってみると、文芸部が配っている雑誌や冊子に、いつごろからかライトノベルの挿絵みたいなものがたくさん載っているようになった。それはいまどきの文人画なんだろうとは思うわけだ。しかし、わたくしはあまりその表象としてのリズム感がわからない。そこには身体的な抑圧があるとかえって思ってしまう口である。わたくしにとっては、言葉は体から悲しみが出てくるようなもので、だからこそこれから良いものが書けるような気がして書く。これが鉛筆や筆で書いていた時代はもっとその感情と身体が一体化したかんじがあったのではなかろうか。