「これはたいへんだ。恐竜とこの島に同居するのでは、たいへんだ」
「やっぱり恐竜は人間をくうんだね。そこまでは考えなかった」
「人間をくうとは、まだはっきり断定できないだろう」
「いや、あの小さい総督が今いった話によると、ラツールとかいうフランス人がくわれ、ポチという犬が恐竜にくわれたそうじゃないか」
「目下行方不明だというんだろう。くわれたかどうか、そこまではまだわかっていない」
「くわれたにきまっているよ。こんな小さな島で、行方不明もないじゃないか。それにわれわれは母船を失った。あのとおり親船のシー・タイガ号はまっぷたつにちょん切られて、もう船の役をしない。われわれはこれから恐竜島に缶詰めだ。そこで今日は一人、あすは次の一人という工合に、恐竜の食膳へのぼっていくのだ。はじめの話とはちがう。ああ、これはたいへんだ」
「なるほど。これはゆだんがならないぞ」
このざわめき話に、水夫のフランソアとラルサンの二人は、絞首台の前に立った死刑囚のように青くなった。
――海野十三「恐竜島」
恐竜と同居する話は、海野十三の昔からいまのゴジラ映画に至るまでつねにある。それは厄災としてのそれであり、それに対する対処はつねに具体的である。しかし、理念のようなものも恐竜と同じく対処は具体的でないといけない。精神だって、物理的破壊と一緒で大変なものだからである。理念はそこにあることによっていろいろなものも壊すから、それを後始末しなければならない。半端なインテリが考えるほど、精神的な衝撃は自己修復しない。ここでわたしが言っているのは、ナチズムとか道徳のようなものを言っているのではなく、マルクス主義やフェミニズムやいまやいろいろな問題の焦点となりつつある発達障害的な問題である。
問題提起することの偉さは常に正しさに接近するのだが、それからは提起よりも忍耐が必要な、具体的な解を積み重ねていけるかという旅が始まる。そこを問題提起的な説教の浸透によって事態が徐々に改善するなどという勘違いが広がれば、具体的な解を見出せないことに傷ついた人が病んだり死ぬことになる。反動的な動きには、具体的な解を見出せないことに対する苦悩や失望が絡んでいる。バックラッシュなんて言葉で他人事のように片付けてはいけない。確かに、解を長いスパンで存在出来るようしばしばアドバイスが降ってくるのだが、もっと事態は常に差し迫っている。なにしろ、善を実現しようとする場合、問題はつねに弱者の顔をしてやってこず、悪人の顔をしてやってくるからである。長い時間悪に耐えていたら、大概のひとは頭がおかしくなってしまう。思うに、ソ連崩壊もそれが理由だと思うのである。