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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

孫の手と東京文体

2022-10-06 23:27:59 | 文学


よくよく見れば。麻古といふもの也。[…]ことにたのしみは。身のうちのかゆさ。云ねど。自然としりて。思ふ所へ手をさしのべ。其こゝろよき事。命も長かるべし。今世上にいふ。孫の手とは是なるべし。

孫の手は、マコという動物が坊主の痒いところを掻いてくれたそれであるそうである。痒いところに手が届くことは一般的によいこととは言い切れない。この怪物のおかげで、老人たちはやたら孫を懐かしがっている。わたくしは、孫の手の硬い感じが好きである。これに比べて、ほ乳類に掻いてもらうなど、いつか背後から襲われるのではないかと恐れるほどである。

この話は鎌倉の話である。田舎には確かに、マコどころではなく、いろいろな動物が出現しそうな気がするが、案外そうでもない。猿と熊がたくさん出てくるくらいだ。むしろ、あやしい怪獣がでてくるのは、いろいろな人が言っているように、郊外なのである。そういえば、鎌倉は一時期都面していた。マコに背中を掻いてもらった坊主は、伊勢の出身で、彼の自意識にとっては伊勢の方が田舎なのかもしれない。古事記をはじめとしては、人間がバケモノへ生成する話は、どうも、都が移動して、都であったところがそうではなくなってバケモノの出現する田舎になったりしたことと関係ある気がする。かくして、日本はバケモノがどこでも出現する土地となったが、おまけに応仁の乱以降、地方がそれぞれ都を名乗りだしたから、田舎は比較的近くに存在することになり、バケモノも近くにいることになったのかもしれない。

――こんな妄想をしたのも、さっき作曲家の神の人である三善晃氏の『オトコ、料理につきる』を瞥見したからだ。なんだこのちゃらちゃらした文体はっ(個人の感想です)。三善氏はピアニストと結婚した赤づきんちゃん庄司薫氏より少し上だが、――なんだろう、雑に「東京音楽系優男文体」と括らせていただきたい。もう研究があったと思うけど、戦後にさまざまに試みられた気取り系ちゃらちゃら文体の系譜は、結局あんまり伝統的な持続をもたなかった気がするのである。ワープロの登場で、漢字への変換が容易になって文体が変わったせいかもしれない。90年代以降、漢字を重装備した戦車みたいな文体が増えた。それはある種の言文一致体のおわりであり、新たな文語の創造だったと思われる。しかし、それにしても、やはり東京の文体というのがあるような気がするのは、わたくしの田舎人コンプレックスのなせるわざとは必ずしも思われないのである。

少し読み直すと、これはあらての落語的な文体なのかとも思った。料理の作り方が内容だとすると、この本はそれ以外の三善氏の思ったこと感じたことみたいなものの量が内容を圧倒していて、実にうっとうしいが、これが一種の江戸っ子的な何かなのかも知れないのである。田舎もんのように、食べるときにおしゃべりするのではなく、料理をしながら内心でずっと喋っているのがこの本だ。勝手に、三善晃の文章というのは、自作を解説するときみたいな東大仏文的(←個人の感想です)観念的みたいな感じだと思っていたが、だいぶ違う。さっきNHKでユーミンがでてたけど、この人はたしか八王子生まれだったであろうか。東京と言ってもいろいろあるのであろう。