
をりふしの兼題に、「還咲きをかしあしたの花の陰に、哀れに可惜き物。初霜の朝に四人泣くは、悲しき物。 世のなかに、あればいやな物、なければほしき物。はじめ懼ろしく中程はこはく、後はすかぬもの。時雨の夜は 、跡あけくれ 先のしれぬ物」。 この五つの題を取りて、明暮、案じ入り、咄程の事ながら、心をそれになして、安達が原の鬼ども、 胸を燃やし、 人の物をやらぬ、分別も出、今もしれずと、無常を観じ、けふの首尾、太夫はいかに暮らしけるぞと思ひ、 様々に移気、魂我ながら定めかね、現に枕引きよせ、寝入りもやらぬ耳ぢかく、十月十五日の暁がたに、 浮世念仏のつれ声、艶しく殊勝に思ひ入り、明くるを待ち兼ね、 出家の書置きして、難波の寺に入るを、各々、ことばを世にある程尽くし、異見を聞きわけず、国遠して、面もなかりき。
話をつくって得点を争うゲームにのめり込み、ついに(というより必然的に)無常を感じて出家してしまうオトコを不孝と断じるこの話である。美男の設定なのでなんかいやであるが、それはともかく、やたら出家すりゃいいというものでもなく、駄目だなこういうやつは、というのがこの話である。ともかくこんなタイプは今もよくいるし、わたくしもたぶんこの類いである。しかし、江戸にはまだ出家という手段があった。いまはそういう行き場がない。
古本屋で適当に買ってきた、石田月美氏『ウツ婚!!』をちょっと読んだ。飛び跳ねるような文章のセンスで、引用とパロディをせずにはいられないところはオタクというより、浄瑠璃的であろうか(←適当)。へたな学術の新書より注が多いのは面白さでもあるが、氏の方法が見かけよりも合理的で研究的である証拠であった。石田氏が提案していることの多くは、ウツじゃない人?でも使える。例えば、湯船はフラッシュバックがあるかも知れないので危険というのは、これは当たってると思う。リラックスと弛緩する危険はとなりあわせなのだ。「新世紀エヴァンゲリオン」の美形のおねえさんがお風呂は命の洗濯よ、といいながら、主人公たちの少年少女たちが浸るロボット内のお風呂が、親との関係から生じるトラウマが回帰する危険な空間であったのと同じである。あと、漫画や映画の題名って少し変えるだけで、それだけで生きる指針になるんだなと思い、感心したわ。「プロポーズに体を張れ」とか。サブカルチャーが娯楽というよりも世界の規律として見えてくるのは、「本朝二十不孝」にも見られるような気がする。
石田氏の場合は、病んだ心身のただ中にあって、なんとか社会の中で生きて「しまおう」とする、綱渡りである。これは、やはり出家の道がないというのがきつい。実際は、石田氏はその文才で世の中にうってでられたという特殊事情がある。結局、我々は自信を回復しないと何も始まらないのだ。自分を認めることだけで何かが解決するわけじゃない。
あと、エネルギーも問題だ。石田氏の文体はエネルギーの塊(たぶんこれはブッキッシュの力である)である。これがあるうちはいいが、歳をとってくるとどうなるか分からない。当たり前だが、ウツや発達障害の問題は、若さによってなんとかなったりならなかったりという繊細な面があるようだ。老いの問題はこの業界でもまた話題になっていくのであろうと思われた。