数十年後、老いたる女乞食二人、枯芒の原に話している。一人は小野の小町、他の一人は玉造の小町。
小野の小町 苦しい日ばかり続きますね。
玉造の小町 こんな苦しい思いをするより、死んだ方がましかも知れません。
小野の小町 (独り語のように)あの時に死ねば好かったのです。黄泉の使に会った時に、……
玉造の小町 おや、あなたもお会いになったのですか?
小野の小町 (疑深そうに)あなたもと仰有るのは? あなたこそお会いになったのですか?
玉造の小町 (冷やかに)いいえ、わたしは会いません。
――芥川龍之介「二人小町」
やっといろんなことがわかって来たような気がするのは寂寥感のせいである。たぶん、いろいろなことを忘れているせいであるが、若者はしばしば多くのことを思い出す。だから、ほんとうは一人で旅に出て環境を変えた方がいい場合もある。世界が一つであることがつらいのである。
むかしは、連れだって出家し、その実、地方に文化を伝えていた僧や元貴族たちがいたようなきがする。
いまの学生はSNSにさらされてるから、大学に入った後、その大学(というより学科)のなかで小宇宙とか桃源郷を楽しむみたいなことが難しいから気の毒である。わたくしのいた国文科は男女比が2:8か1:9ぐらいだったきがするので、男だと言うことだけでなぜかモテた(以上、夢だったのかもしれない)そういえば、こういうこともあった。なぜか体育=ダンスの授業で女子にただ一人混じって踊らされたのはハラスメントかあるいは竜宮城。。成績も秀だった。おれは体育が得意なモテ男として人生の頂点に(成績以外は夢)
かくして、夢か現かのうちに当時も過ぎていったし、いまもよく山梨の大学時代は思い出せない。都留は閉じていたし、バブルの余波もオウム真理教の何もかも私にはあまり関係がなかった。音楽と文学をやっていればよく、あまり競争にもさらされない環境だったのである。これで、わたくしは受験や木曽の過去をある程度精算していたと思われる。そこが東京でなくてたぶんよかった。
文学もやはり東京中心に回ってるところがあるが、ここでは文学オタクの世界であってもやはり淘汰がおきる。逆に地方の学校の先生とかマニアとか同人誌の人たちは成長が阻害される可能性がある代わりに長い時間をかけて生き延びることもあるのである。そして、教え子に跡継ぎをつくる。東京では進化した恐竜がでてくる。その一方で、別の場所での進化もありうるわけである。そうじゃないと文学は持続可能ではない。――本当はそれを知ってるんで、中央の作家も芭蕉のむかしからちょくちょくに地方に旅して盗み見しようとしてきたのであった。地方の自信がない文士たちにとっては、ある意味、中央の役人が来るみたいなものでいやな感じだったかもしれないが。いまでも地方のちっちゃい文学部と教育学部はかような意味で大事である。
競争に慣れると、それがコントロールされたものなのか、コントロールされるためのものなのか、コントロールするものなのか、みたいな視点が欠落してゆく。勝ち組だけでなく「負け犬」の視点がいまいちなのはそのせいである。そういう区分はとても社会にとって重要なことであるが、それが自明の理であるはずの文学にだってそういう欠落はおこる。例えば、漱石は四国くんだりまで流れてきたことが、イギリスに行ったことよりも重要だったきがする。そうでないと漱石は「夢十夜」みたいなメンがヘラした思わせぶり野郎で終わっていた気がする。四国の民は江戸っ子坊っちゃんにとって負け犬である、しかし最後は負けて江戸に下ってゆく。これは一種の下野である。だからといって、これは勝利ではないし単なる負けではなかった。もっとも、漱石はだから視点は「個人」がしっかりして保持するしかないのだ、みたいなところに行っている気がする。これが文学研究者の根性を慰撫した。