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夜半に、善右衛門、俤を顕はし、わが女房に、心を残さず、まざまざと語りければ、夢のうちにも胸をさだめ、目覚めて、 なほ一念やめず、枕にかけし長刀取りのべ、蔵にかけ入り、 善助・善吉・善八を、 漏らさず切りすゑ、二歳になりし男子を、姥が添へ乳をせし懐より、取出し、自害せられし善右衛門脇ざしを持ち添へさせ、「目前に、親の敵打つぞ」と、三人ともにとどめさし、この事姥にかたり置き、その身も、 あした心さしとほし、消えける。露の世の朝の霜、これ程はかなき事 はなし。
人生100年時代とか言っているが、大概の人は人生に於いて生き恥をさらしているわけでそれが人生の意味である。短い長いは関係なく生き恥こそが重要であり、人間の政治を生じさせる。それが維持されている場合は、人生が突然それが絶たれたりしても問題はないが、そうではない場合、つまらない追悼文なんかで送られてしまう。今はやりの追悼文に人生はない。つまり人生100年時代とか言っているのも、もはや長生きの意義すら超えた、我々の社会が「人生の否定」という事態に突入していることを示しているのである。
なぜこんなことになったかと言えば、常識的には、社会を失ったからかも知れないというのは私でも思いつく。人生は社会にあった。政治は社会にしか生じない。思いの丈を書いたりしながら社会的生活を送る「へんな生き方」は、その思いとやらに社会的意味が生じる特殊な変人だけに許されていたことで、半端な能力であったらむしろどこにも書けなくなってしまうのがネット以前の世界であった。危険だからである。本音と社交が遠く離れた弧のようになって「見えちゃってる」人はやばい輩なのは常識ではないか。人類はついにネット世界によってみずからやばい輩になることを選んだのであった。――やばい輩というとあれだけども、本人は普通に鬱っぽくなるだろうし、傍から見ると、(素人めにみて)なんらかの障害的なものにみえる。ネットの使用のせいというより、ネットを前提にした社会のせいであろうか。
西鶴の時代には、その人生=社会が安全弁でもあることを求められていた。これには人間は耐えられない。だから、親孝行みたいな社会的観念を借りて、夫を殺された妻は相手を殺害する。息子も「親の敵」ということで協力させられているが、これも一種の方便である。