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誠者自成也。而道自道也。誠者物之終始。不誠無物。是故君子誠之爲貴。誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也。成物知也。性之德也。合外内之道也。故時措之宜也。
この「合外内之道」というぶぶんがよくわからない。誠は自己と物事を貫通して成り立たせるなにかだとしても、自分を成り立たせる仁、物事を成り立たせる知が、誠の形で統一されるには、なにかそこに媒介が必要なような気するからだ。結局、仁も知も誠も一部が間違っていれば他も間違っている関係にありり、全体としての統一が目指されていないといけないというのは形式的には分かる。誠は物事の本性なのだから、自ずから成る筈である。だから人為的な統一なのではないというわけだが、ここに欠けているのは、我々の煩悩の存在である。これを我々の本性と認めた瞬間に、仁や知の変形――無理やりの強弁が始まる。しかも、その強弁も自ずから成ったのだという礼的道徳にとってはタチの悪い理屈が用意されているのである。しかし、世の中の全体性にビビらないようになるためには、そこまで考えておく必要はいつもある。
神道で自ずから成るみたいなものも、そうなりがちである。そのためには、仁も知という分割を吹き飛ばすほどの、限りなく細かい、外界に対する応答機械である必要があると思う。
普通、「引退後食べ過ぎておなかがぷくりになったイチローが見たかった」といったら怒られてしまう。自ずから成る、論理からはずれているように思われるからだ。「実際にイチローは成っている」じゃないかというわけだ。しかし果たしてそうであろうか。すくなくともわたくしの頭の中では別の成り方があったではないか。そしてそれはイチローが清原と似ている部分もあるみたいな、現実に起きる自明のファクトに接続している。そこから枝分かれして様々なイチローや清原がいるのである。
たしかに、「自ずから成ったのか」という批判は、批判のための武器としてのみ機能さすべきかもしれない。昨今の改革なんか、それはだめだから現状そうなのにそれ選んでどうすんのという頭が悪いあれの場合が多い。もちろん、学問がそういう轍を踏んでないとはいいきれず、半端な学問的な思考を多くの人がするようになれば、みんなで先学を乗り越えてなぜか世の中が地獄的になる。この地獄が「自ずから成った」ようにみえる馬鹿がテレビをはじめとして大手を振って歩いている。もはや、その人為に対する盲信は、人間に対する支配欲としか言いようがないが、そういうものだけは「自ずから成った」とはみなさないのだから笑わせる。