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うちの庭は、百日草と蛙に占拠されているのだが、この調子では、来年辺り、蛙と百日草の掛け合わせが出現して、香川大学への道は、百日草が不規則に飛び跳ねる事態で、美事大学も休講。。。
になるわけがない。いっそのこと、少子化対策として、うちの百日草と人間のかけあわせを提唱したい。二年で庭を占拠するところからして、十年ぐらいで世界を日本人だらけにできる。
ところで、日本人とかいつも我々は言っているわけだが、むかしはもっとそれですら均質的ではなかった。ナショナリズムの時代の方が均質ではないのである。――子どもの頃、少年講談全集の『曽呂利新左衛門』をくり返し読んだ。さっき久しぶりによんでみたが、ほとんどせりふをおぼえてた。これ文章を書いている人誰なのかわからんが、私はマンガのかわりに少年講談全集とかを読んでいたので、どうもこういう少年講談全集(昭和30年辺り)を読んでた世代と話が合う気がするわけである。で、ここが重要なのだが、本の帯とかには、石坂洋次郎とか力道山が推薦文を書いている。石坂が講談は「日本人の民族感情を把握する助け」になるんだみたいなこと書いてるあとに、力道山が「人生を強く明るく生きてゆくことが私のモットーです」と書いてるのが、いったいなんだろという。この葛藤に見えない葛藤が、日本のナショナリズム時代を爆発的なものにしている。装幀を人形画の西沢笛畝がやっているようだし、けっこう今考えると気合い入っているのだが、たぶん制作者たちは、単に気合いが入っていただけで、ナショナリズムにはけっこう無頓着だった。おそらくは、戦争に負けたので悔しくてよけいに無頓着になったのである。
わたしは、小学校五年生ぐらいの頃、「曽呂利新左衛門」を図書館の推薦図書にあげた。そこで、この本は面白さで押しているけれども、最後に「心持ちがすぐれません」と秀吉に極楽で城を造って待っていると死んでいったので、けっこうかなしい話ですみたいなことを書いていた。こんなところにも、葛藤があったのである。
私は、松田政男以来の均質化風景論に疑問を持っているのである。