九四。或躍在淵。无咎。九五。飛龍在天。利見大人。上九。亢龍有悔。用九。見羣龍无首。吉。
龍は昇り、昇りすぎ、群がって首がなくなる。これらは因果的に繋がっているわけではない。しかし、道徳とつなげてみることはできる。
易図をみたライプニッツはこれは二進法じゃないかといったとか。われわれは、どこかしら、のぞき窓から全てが見えました、というのが好きな気もするが、窓があることと見えることが選ばれてあるときに、それが二進法に導かれるようにたまたまだからこそ、道徳的に意味づけることの輝きが増すのである。世界を一端ばらばらにせざるを得ないほど絶望的な地点からの発想である。占うとは、非科学的なものを信じるのではなく、なぜか既に行われているところの世界のことがらの組み合わせと風向きを知り、それにしたがって自分の心をを整えることだ。
柄谷行人は、むかし、占星術にはまっていたことがあったはずだ。このことは、かれが社会運動で、NAMは南無だとか、選挙の代わりにくじ引きだみたいなことを言っていたことと関係があると思う。
そういえば、「相手の気分で評価が下がったり上がったりするんだから気にするな」みたいな言説はネットに溢れかえっている。そう思いたいのは分かるが、他人というのは大概そんなバカではない。むしろ自分の気分と他人が下す評価の関係を考えないといけない。だからといって、その延長で人間関係が絶対と考えてしまうと、主体の問題が消えてしまって、死ぬしかなくなる。なんでもポイントでつられてるんじゃねえぞ脳みそ魚かよ、とか家の食卓でもりあがっていたのはいいが、職場に行くとポイント制とか議題に上がってました(シノウ)、といったことはよくあるわけである。こうなると、占いでもやって、龍が昇る局面はたしかに世の中にあるというのが救いになるわけだ。
例えば、世には「飲み会」?というものがあり、まあそれにもいろんなものがあるわけだが、基本うっぷんばらしの場である。しかしだからといって、飲み会は無礼講です、みたいな言い方を本気でとっているやつもばかだし、本気でコミュニケーション能力発揮の場だと思っているやつはよほどのバカだと思わざるをえない。がっ、最近、ほんとに処世のための行動をしたりそれに美事に騙されているアホ上司がえらく増えた印象である。これは、おそらくコミュニケーション能力みたいなものが評価項目となったからである。正直なところ、易経の、龍は昇ります、首がないときもあります、みたいなものより頭が悪い考え方であり、人間には筋肉がある、みたいなことを言っているだけというのに近い。最近、公務員や企業で採用されている評価の書類とかをときどき見ることがあるが、あれではがんばっている風に振る舞うことと、人の尻ぬぐいもふくめてがんばってることの区別がつかない。「あいつはいいやつだな、仕事はでけんけど」とか「あいつは性格はクズだけどごく希に役に立つときあるから冷遇するわけにはいかんか」とか「すべてつつがなくやるけど根本的に意地悪くてオワってる」、「あいつはアンパンマンの一番まずいところよりもまずいアホだ」とか、「あいつとあいつは仲が良いがだめだ、モノを運ぶときだけよい」みたいな、矛盾的自己同一的感想のほうがやつにたつ。
評価というのは、組織全体で出てくるべき数を人間に割り振るみたいな、小学校低学年みたいな発想で作られている場合が多いが、生産する現場はもっと違う矛盾的自己同一的関係性がないとつぶれてしまうし、組織のトップが吉慨だった場合に共倒れしてしまうにきまっている。個人プレーで人の業績を奪う勢いみたいなおかしなロボットが生産現場でやっていけるかといえばそんなことはないけれども、結果から逆算すると、そういう吉慨ロボットがたくさんいたほうがよいことになるわけだ。なにかを生み出す現場は、数字の外部にある偶然性みたいなものではない。いっそ、S=ウンコ、A=カレー、B=漬け物、C=ごはん、1=インコ、2=すずめ、3=とかげ、4=魚の骨、みたいにきめて、すべてをことばにするところから遊びはじめるべきだ。