★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

コペル君の堕落と逆襲

2023-09-12 23:57:21 | 文学


私が何とかして会いたいと留置場の中で日夜願っている同志たちとはこういう細工をしてまで会わせず、会わせる者はと云えば、帝国主義官憲とグルになって、もう「コップ」の仕事はしないと云えなどとよくも恥しらずにすすめる奴らです。私はプロレタリア婦人作家として、プロレタリア文化のために働くことこそ命だと思っている。どうして対手になれよう! それらと闘いぬいて出て来ると、敵は何とかケチをつけるため、父親が一札を入れたおかげで出されたのだとか、あやまったからだとか「今回の検挙によって思想上に一転機を来した」から釈放されたとか、ブル新聞に書き立てさせる。文化活動者として私をわれわれの同志から、大衆から切りはなそうとする悪辣きわまるデマです。敵は、私を二年も三年も監禁する理由を発見し得なかったので、今度は体は自由でも仕事のやってゆけぬようにしようとする。
 検束されていた間、それから六月二十五日に出て来て今日になるまでに私の学んだことはただ一つです。それは文化活動をふくむプロレタリア解放運動の全線で、わたしらが一歩でも正しいわたし達の主張を守ろうと思うなら、そのためにすべきことは敵の暴圧に対する精力的で科学的な逆襲があるばかりであるということです。


――宮本百合子「逆襲をもって私は戦います」


「ゴジラの逆襲」は、その前の異様な気合いが抜けたみたいな映画であるように見えて、案外人気がある。敵怪獣アンギラスがでてきて、キャアッというかアアアッというか妙な鳴き声で我々をぎょっとさせる。ゴジラは災厄である、しかしその敵はどうであるか、やはり災厄である。我々はどうするのか……。この状態になんとか耐えているのがこの映画である。次のキングコングからはつまり、彼らは見世物であるという感じになり、そのあとはモスラに説得されたとかなんとかで、敵の敵の敵ぐらいになるとその敵はみんなの敵だということになり、キングギドラをみんなでリンチする映画になっていった。

こんななかで、我々自身はもっと自意識をこじらせてゆく。宮崎アニメなんかもその一種である。戦争を体験した人のいくらかは、母や恋人や妹を振り返っちゃだめなのに、くり返し振り返るしかない。イザナギとイザナミに描かれる如く、そうなったら地上に出られない。つまり戦時のトラウマ=自意識のなかに閉じ込められる。しかし、それでは我々の心は持たないので、しまいにゃ死んだはずの女たちが空を飛んでいる。

今日は、映画「君たちはどう生きるか」を観てきた。もう宮崎氏はいいかげん老人であるから、いままで取り繕ったエロティズム――気が強い姉御みたいな女性と空飛ぶ美少女の組み合わせである――を昇華させ、ついに「瘋癲老人日記」みたいなのを作るのか、とゲスな期待をしていったのに、また第二次性徴期前期の話であった。いや、しかし、ある意味これも老人日記だよな。わたしも歳とってきてわかってきたけど、老いは思春期にとてもよく似ている。どちらも生きるか死ぬか迷うし、どちらなのかわからない、敢えて言えばぼやっとした海とか島とか鳥としか言いようがないところがあるのだ。今日の映画出てきた、ベックリンの「死の島」や鳥たちは、シンボルではないのだ。ああいうオブジェが生と死のあわいに存在する心理的な物質なのである。芥川龍之介の「河童」もそういう存在である。ほんとは、今日の映画のように、「河童」の国から帰ってくるということは生まれ直すことを意味すべきだった気もするのだが、芥川にはそういう気がなかった。そもそもそういう気がないような人のように思える。

吉野源三郎の著作にはかなりきちんと応答していたと思う。吉野は「少国民」に対してあれを書いた。コペル君は思春期の混乱の前に、世界と友に対して成熟した。吉野の言いたいのは、そういう倫理は思春期の混乱とは別のものであり、むしろ制御棒にすらなるものだ、と。しかし、現実には、コペル君だって、あのあとひどいことになっているはずである。近代文学はそのあとを追跡した。妻の妹を妻とする性の権化=軍需産業の担い手である=主人公の父=キ★タクが、将来主人公の細君を寝取ってあれになると「暗夜行路」となる。いやその前に、主人公がそのニュー母を母への思慕の余り寝取れば「源氏物語」になる。主人公が女中の婆様たちとあれになれば、「遠い空」に。義士もコペル君も堕落する。堕落するところにしか人間の母胎はあり得ない。

あるいみ、宮崎駿の作品というのは、古事記やらの世界をやり直してくれたところがあるので「君たちはこれからどうすんのだ」と言う資格があるのかも知れない。あとはやりたい放題だ。しかし、戦後とは、コペル君がそのまま聖人であり得る世界から始まった。宮崎アニメを裏から支えていたものもそれであった。コペル君は、思春期前の人間として、世界に逆襲していたのである。これに比べれば、「シン・エヴァンゲリオン」なんかは思春期の終わりを以て新しい世界を、と言っているのだが、大人としてまた戦争前の赤ん坊に戻りかねないのだ。