★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

乗馬班如。泣血漣如。

2023-09-24 23:50:15 | 思想


九五。屯其膏。小貞吉。大貞凶。上六。乗馬班如。泣血漣如。

よくわからんが、馬に乗ってもうまくすすめない/とおもったら、血の涙がはらはら流れている。まるで、エイゼンシュタインの映画のような悪夢が感じられる。

もっとも、エイゼンシュテインの生きた世界も中国の乱世も、モンタージュのような溌剌としたものがあったので、表現が飛び跳ねるということがあるように思われるのだが、ほんとの悪夢というのは、何十年もかけて知らないうちに自分で自分の首をしめているような状態を言うべきだ。

例えば、教育界の窮状は、人手不足でも労働時間に対する意識の改善でもモンスターペアレンツの増大でも教師の能力の低下だけで起こらず、最近の官庁からのいじめによるだけでも起こらない。近代化以来、求められる経済機械・軍事機械に人間を仕立てるのは大変なことであって、首謀者たちは自分でそれをやる気もやり方も分からなかった。それで、半端にかしこいまじめなタイプの人間たちを子どもの世話係にして結果だけを強奪する作戦に出たのである。そのいじめのつけがまわってきたのだ。で、半端さが度を超すとほんとにかしこいやつがどんどん逃げて行くと。

それは戦争が終わったら改善されるかと思いきや、全く逆であった。例えば、戦後の某小説に対する「母の心」と女教師を結びつけるあれね、作品の読みとしても変だし、考え方としても差別的だったのである。主婦と教師って同じ役割を押しつけられたといえるんじゃないだろうか。それに気づけなかったのは、師範出とか大学出の教師に対する対抗意識が大石先生的なものにあり、それが戦後の女教師たちに引きつがれたところがあったからかもしれない。いまの寄り添い系は別の起源があるのかも知れないが。。

ともかくも、その押しつけられた役割に自覚的になってなおもそれを負う人と、子どもや弱者、ほんもののマイノリティは命を賭けた戦争状態となる。

芥川賞を受けた市川沙央氏の『ハンチバック』をよんだ。戦後のフィクションは、いちぶ、プロレタリア文学風のものを受け継いで、人間になりたい話をたくさん生産した。この小説は、それに対する反逆である。この小説に描かれたことは、ある意味、村上龍や中上健次、宇佐見りんよりも倫理の底が抜けているが、これも、人間的なものの一部であって、本当は普遍的なものなのである。この小説はある意味危険である。生を生きることが崩壊の過程であるなら、すべてが崩壊したところで生きることにすぎないのだから許される。誰にでも起きうることではあるが、起きてからしか起きうるとは言えない類のものなので、当事者しか書けなかったわけだ。普通、起きうることは普遍化されるべきなのが社会である。この場合はそうはいかないのだ。おそらく、個人ではなく社会にとってもそういう事情がありうるのである。

最近「刺さる」とかいうておぞましやと思っていたが、さっき奥野健男の『情況と予兆』を読んでいたら、「心を激しく撃つ」とか「ぼくの心に突き刺さった」みたいな表現がでてきて、なんとなく浪曼派読んで育ったりするとこうなるかと勝手に思った。もしかしたら、奥野氏の世代は、市川氏のような体験を社会的に経験したのかも知れない。すべての生は崩壊する過程に過ぎなかったわけだから。