海人の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ
と泣きをれば、このをとこ、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれに歌ひける。かかれば、この女は蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。
伊勢物語の六十五段を蓮田善明は「伊勢物語の「まどひ」」で自分流に訳している。このとき、会話文と和歌は原文のままのこしているし、地の文の言い回しも古風なので現代語訳のかんじがしないが、よくわかる。蓮田の「みやび」とか「まどひ」の観念も、どこかしら近代のにおいがする。三島由紀夫は別にほんとに復古だったわけではなく、蓮田流に復古だったのである。別に言えば、彼らは近代文学の中にあって、近代文学を復古しようとしていたところがある。蓮田善明というのはいまこういうタイプの国文学者がいたらぎょっとするのはもちろん、当時においてもぎょっとする感じなのである。
これが、中野孝次あたりになると、その実論理は似たり寄ったりなことを言っていながらだいぶ違う。彼ら戦中派の小説なんかをよんでると、怨念があるのは分かるけど、具体的にどういう風に生じた怨念なのかわからない場合も多い。ちゃんと自分の周囲と自分をスケッチしてない。これだと、特攻隊映画や「はだしのゲン」に勝てないんじゃないかなと。。。わたくしなんかは思うのである。
芥川龍之介が死んだ歳に、寺田寅彦は「夏」なんかを書いている。曰く、一番夏がすきで、軽く貧血になってぼうっとして鈍感になるのがドビュッシーの「牧神の午後」みたいだぜ、(いや、これは喫茶店の描写だったかもしれない――)と。蚊も平気で、蚊の居ない夏は「山葵のつかない鯛の刺身」だそうだ。日本の夏というのはこういうもんだったはずである、というのは簡単だが、同じ情況になってもかれのようなスケッチがちゃんと出来るかあやしい。
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夏のような夕立があった。
と泣きをれば、このをとこ、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれに歌ひける。かかれば、この女は蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。
伊勢物語の六十五段を蓮田善明は「伊勢物語の「まどひ」」で自分流に訳している。このとき、会話文と和歌は原文のままのこしているし、地の文の言い回しも古風なので現代語訳のかんじがしないが、よくわかる。蓮田の「みやび」とか「まどひ」の観念も、どこかしら近代のにおいがする。三島由紀夫は別にほんとに復古だったわけではなく、蓮田流に復古だったのである。別に言えば、彼らは近代文学の中にあって、近代文学を復古しようとしていたところがある。蓮田善明というのはいまこういうタイプの国文学者がいたらぎょっとするのはもちろん、当時においてもぎょっとする感じなのである。
これが、中野孝次あたりになると、その実論理は似たり寄ったりなことを言っていながらだいぶ違う。彼ら戦中派の小説なんかをよんでると、怨念があるのは分かるけど、具体的にどういう風に生じた怨念なのかわからない場合も多い。ちゃんと自分の周囲と自分をスケッチしてない。これだと、特攻隊映画や「はだしのゲン」に勝てないんじゃないかなと。。。わたくしなんかは思うのである。
芥川龍之介が死んだ歳に、寺田寅彦は「夏」なんかを書いている。曰く、一番夏がすきで、軽く貧血になってぼうっとして鈍感になるのがドビュッシーの「牧神の午後」みたいだぜ、(いや、これは喫茶店の描写だったかもしれない――)と。蚊も平気で、蚊の居ない夏は「山葵のつかない鯛の刺身」だそうだ。日本の夏というのはこういうもんだったはずである、というのは簡単だが、同じ情況になってもかれのようなスケッチがちゃんと出来るかあやしい。
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夏のような夕立があった。