風が秋らしくなってきたような気がするが、――映画「風立ちぬ」は、世の中聖子さんの歌だけでは終わらないちゃんと弁証法があると俺に思わせだけでも意味があるといへよう。むろん、そういう弁証法は、それであるにすぎず、良いこととは限らない。
最近は校正やってて、毎回ながらほんといやだけど、ひとえにいつも読んでいる本よりも文章が醜悪だからだ。西田幾多郎読んで文章下手だな俺の方が巧いとか思う人がうらやましい。わたしにかぎらず、日本人の文章はどんどん下手になっているのではなかろうか。
わたしの若い頃よく言われたのは、意見を言われたらよい発表、というやつである。ようするに、その発表は弁証法の一段階として認められたと言うことであろう。卒業論文でも修士論文でもレベル以下のものはまったく意見が出なかったりするのに対し、そこそこがんばったが重大な瑕疵があったりするのは強く文句言われたりするのはせいのせいだ。というわけだが、この現象について「まあ謂わずともみんな分かってるよね、普通は」というのは、昨今もうきつそうだ。しかし気づいたときには、そういうレベル以下をけなす以前に、逆に文句が出ないのでほんとに自分のものが優れていると思ってしまったレベル以下が勢力を拡大して、ゆだんしているうちにそういうのをほんとに褒める輩が出現してしまったりするのである。
たいがいの改革は、それだめだから現状そうなのにそれ選んでどうすんのという頭が悪いあれの場合が多いが、もちろん、学問がそういう轍を踏んでないとはいいきれず、半端な学問的な思考を多くの人がするようになれば、みんなで先学を乗り越えてなぜか地獄に――
ある意味、こういうものの弁証法である。
よのなかがこの体たらくであるのに対し、作品はかわらない。だから、例えば、「ゴッドファーザー1・2・3」のうち、3はなんだかなと思ってたけど、歳を取ってきたのか、3がいちばんよいような気がしてくる、みたいなことが起きるのである。まさに作品とは、墓標であり、モニュメントである。我々を「訂正」してくれるのは、こういうものだけだ。
東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』をソファーでだらしなく読んでたら、細が「『低姿勢可能性の哲学』には賛成」とか深いんだか中間管理職的なんだか分からないことを言って出勤していった。夢だった。