★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

脱お茶坊主論

2023-09-18 23:37:56 | 文学


又心高きこそ春宮の宣旨など、今の世にとりては古きものはべれ。まことにことばづかひなどは古めかしく、歌などわろくはべれど、いと名高きものにぞはべる。その人となきものの身のあまるばかりのさいはひを書きあらはさむとしたるものこそ

三島由紀夫を教えた国文学者のひとり松尾聡が「平安朝散逸物語攷」であげている「心高き東宮宣旨物語」についての「無名草子」の記述である。今の世ではもはや古いとされているけれども、こういう言い方がほとんど信用できないのは、昔も今も同じである。

テレビでときどき懐メロ番組やってて、視聴者が若者にいやがられている五十代以上が中心のせいか、――当時の歌謡曲がいまどきの子にも人気みたいな主旨のつくりでやっているときがある。しかし、五十年前と今みたいなつい最近同士でなかよくしても、いずれ国風歌謡の全盛期で当時の大衆に人気があった、みたいなくくりで教科書に載るだけなのだ。まだ、「無名草子」は優しく価値判断をした上で昔のものだとしながら、ある意味昔に対し品位があるんじゃないだろうか。

三島由紀夫は、松尾について、授業は文学的というより古典をを自力で読めるようにするための無味乾燥なもので、本人も偏屈で厳しかったが、対して「お茶坊主教師」は人気がなく、松尾先生はかえってひねくれ坊主たちに人気があった、みたいなことを書いていた。とにかく、懐メロ番組なんかはお茶坊主的なのだ。とにかく最近はすべてがお茶坊主的なのである。

ジャニーズのことが話題になっていて、彼らからはお稚児さんみたいな感じを受けていた、と辛辣に言う人も出てきている。

羽生くんが誰と結婚してもいいけど、スケート靴の職人とかリンクの整備係とかプーさんを縫ってる人とかと結婚とかそういう古風ないい話で差別的な言説はないのかっ。そういうものの方が、まだ、羽生くんを大人として扱っている気がする。

――かくいうわたしも、ジャニーズ的なものの旺盛のなかで、拗くれている。例えば、二回以上見に行った映画はひとつしかなく、それは「キルビル」である。大きい女性が刀を振り回す映画であるが、――よってわたくしは自分を非常に残酷なやばいやつだと思っている。どうせ現実では猫みたいだとしても。わたしは、猫に関する文章を随分読んできたが、猫にも隔世遺伝があるぞとか言っている寺田寅彦のものがいちばん好きだ。漱石も百閒もあまり好きではない。なにか、彼らの猫は、アイドルが好きですと言っている地点で滞留している気がする。

ジェンダーフリーのせいにするにはあまりに複雑な混乱のなかに我々はあり、とりあえず、人間一人を正直に描くことから再出発するしかないようだ。ひとりも取り残さないとか嘘でもいうんだったら、さっさと石川啄木とか中原中也とかを大河でやればよいのだ。朝ドラでもいいわ。ムラサキシキブとか例の植物学者は何処まで行っても大まかにいえば宮仕え(つまりお茶坊主である)のひとだ。いつまで経っても、かれらを描くことは国家を描くことと不可分で、どうしても人間にへんな理念的な空想が混じってしまうのである。