★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悟空の師匠は生きている

2024-05-01 23:20:04 | 文学


一日門下の弟子等松樹の下にありて遊びしが、悟空に対ひて云ふ、「前日師父に変化法を教へ給へりと聞けり。今試みに身を変じて松の樹と化し、我輩に見せよかし」と望みぬれば、悟空「いとやすき事なり」と身を揺すと見えけるが、忽変じひとつの松の大木と化たりけり。あまたの弟子等是を見て、手を打ち聲を上け、「化し得たる哉。奇なり妙なり」と称賛せる事かしがまし。祖師此声を聞きて、外に出て是を見れば、悟空変身の法を行ひすまし、一大松樹と化したりける。祖師徒弟等を遠く退け、悟空をまねきさとして曰く、「你弟子の中に於て変身して松樹と化したり。人皆你にくはしきを見て、必ず你に求めて習ひ得んと乞ふべし。你若傳へずんば、渠必ず害心をさしはさみ、你が命も保ち難からん。快く此所を去りて性命を全くせよ」とのたまへば、悟空是を聞きて両眼より泪を流し、「我師父にわかれまゐらせ、何国の所へ還り申すべき」とさめざめ詫び歎きけるを、師をして、「你何より来りいづくより去る」と示し給ふに、悟空忽悟り、「我は東勝神州傲來國華山水簾洞の者なり」

君たちはどういきるか、というのは死者からの呼びかけとして有効だ。宮崎駿はそれを知っていた。悟空の師匠が、師匠の地位を簒奪しかねないから悟空を体よく追っ払っているようにもみえなくはないのは、師匠が生きているから起こることだ。

古典の世界に「師匠」がいて、かれらがまだ師匠として機能してた場合、それは善し悪しなのである。戦前には、片田舎に漢文とか俳句の師匠がいた。わたしは郷土雑誌『信州文壇』についてはあまりしらなくて手元にも昭和十五年の一冊しかないのだが、――戦前の地方の文人(教員とか僧侶とかその他諸々)達がそこそこ漢詩とか作れるのがサスガと思いつつ、全体的にみると悲しい程レベルが低いことにも驚かされる。正直なところ、こういう趣味的な文化保守の頭の悪さに囲まれていりゃ、左傾教師も古典に命をかける右派もキレるわなと思う。戦争責任云々以前にちょっとナショナリズムの表現としては稚拙すぎるのである。ナショナリズムを駆動した大衆?文化というのは、古典にも西洋文化にもきわめて不誠実な認識のレベルの低さにあり、古くさかったのではない。

よく言われていることだけど、古典に対する素養なんていつの時代も崩壊してるのである。時代がかわったから崩壊したのではない。そりゃまあ戦後の崩壊はものすごいけど、程度問題だとも言える。