だが『資本論』の労働価値説は九三%でなく、「一〇〇%労働価値説」であり、しかもそれの適用される対象は、右のような単純な生産モデルや仮定を許さない、現実の資本主義社会である。そこでは財の価値を労働時間単位で計測することは不可能なのだ。[…]マルクスは複雑労働ないし高度労働は簡単労働への還元計算ができるのだから、価値の労働時間による測定ができると思っていたらしい。しかし、こういう還元計算をおこなうこと自体が、マルクスの意図とは逆に、労働を「時間」という名前の、時間ならざる経済単位で集計することになるのである。
――「マルクス「資本論」の正しい読み方 1――「資本論」に労働価値説は実在するか――」(1973)
この堀江忠男の資本論についての紀要論文なんかをさっき読んでたんだが、同名のサッカー選手がいて、ヒトラー五輪の「ベルリンの奇跡」のメンバーじゃないかすごいじゃないかと思ったら本人じゃないか。。。肩を骨折していたにもかかわらずむかしは交代制度がなく出場して、ナチスよりも強いんじゃないかと言われていたスウェーデンを逆転で破った。五輪の数年前まで、日本人のサッカーレベルはヘディングって何?という状態だったらしいのだ。しかし、心配するにはあたらない、「キャプテン翼」にみられるように、日本人のサッカーというのはつねに自分の現実とは離れたものである。
現実離れするわれわれとしては、現実的な実力なんて現実的すぎてつまらない。むろん、機械的なことは機械にというのは止められない流れではあるが、機械的なことだけを誰かにやらせて自分はもっと高級なことをというはただの妄想で、全体的にあたまがゆるくなって体もだるくなり何も思いつかないというのが一般化してきているにすぎない。そこまで都合良く頭よくできてねえわけである。
現実離れの才能のために、――かしこまって「思考力の育成」とかいっていたらどうなったかといえば、事実や名前や題名を正確に写したりするのが苦手になってしまった。実際そうなってるのだから仕方がない。病気とかではなく全体的に苦手になっている。日本がいまいちになった理由にはいろいろあるが、一種の事務的な能力が転げ落ちてるのだ、なにが創造力だよ
教職人気の低迷の理由は多くあるが、この基盤みたいな学力=体力を「勉強できればよいというもんじゃない」とかいって遠ざけ、あたかも「コミュニケーション能力」を純粋に個人の力能であるかのようにみなすことで、その実、学力が不安な学生のルサンチマンに訴えてしまっている大学にも問題があるのは無論である。「コミュニケーション能力」は環境と状況によるから現場があまりに複雑性を帯びると信用できないのは当然として、上の体力が余りに低いと当然信用されないのはわかりきっている。基盤がないとおどおどするか妙にはしゃぐかどちらかになり、そんな人間に「先生」面してもらいたくないのは当然なのである。やはり「こんぴら先生」だの「大石先生」だの「金八先生」とか極道とかなんとか、現実離れしすぎたのはよくなかった。もはや、現実を直視するほどの勇気もなくなり、遠慮という名の逃亡状態である。しかも、そこにはインターネットの楽しい世界が用意されているのだからたまらない。
ICTで授業が楽になったり、一人一人に対応して学力を伸ばせるとか簡単に言う人というのは、主体性?とやらに裏打ちされた人間の体力と能力というものの野放図さと馬鹿さを過大評価しているし、そもそもそれに乗り気でない人間を蔑視することがおおきな目標になっているからだめなのである。うちの父親と母親は教師の新人時代、録音テープの機械が使えるということで重宝されたらしいが、――どうせ「さすが戦中生まれは科学の子だな、戦争負けたけど」とか言われていたにちがいない。戦争はコミュニケーションであり、それを物量の問題だと思ってしまう頭の悪さにおいては、科学を扱うときにいらぬルサンチマンが混ざってしまうのであった。
あまりにもうまくいかない教育を労働時間の問題に還元しようとするのなんかも、上のサッカー選手に言われるまでもなく、ナンセンスなのである。73年当時、それでもなお「労働価値説」を振り回す人たちがたくさんいたのは、たしかに時間が重圧となっているかのような倦怠が日本中を覆い始めていたからだ。連合赤軍事件なんか、殺した数とか銃の数とか、はては県警が食べたカップラーメンの数だとか、視聴率とかが問題になる体たらくである。事件の前に、もっと面白い現実離れを起こすべきだったのだが、それをやりかけたのは大江健三郎ぐらいだった気がする。