★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

齋天大聖

2024-05-05 23:33:14 | 文学


玉帝即悟空をもつて弼馬温の職を授け給ふ。此弼馬温の職は馬を養ぶ役にて、甚だいやしき官なれども、悟空元來官職の高下を知らず、よろこびて任に到り、己に半月を経たりけるが、同業の官人が物がたりに、馬をやしなふ賤官のよしを始めて聞き、牙を咬んで大に怒り、「我花果山に在る時既に王位にのぼれり。如何ぞ我をあざむき来りて馬を養はしむるや」とて、忽耳の中より如意棒をとり出し、変じて一丈餘りの銕棒となし、御馬艦を走り出て花果山へこそ立かへる。属手の衆猿あつまりむかへ、「大王天上にありて榮花を受け給ふならん。抑何れの高官を得て帰り給ふ」と問ふ。 悟空憤然と答へて曰く、「玉帝元來人を用ふることを知らず。 我に馬を養ふいやしき職を授け、恥辱をあたへたり。是に依てに遂に走りて爰に帰れり」衆猿を聞きて申しけるは、「大王此洞中に在して歡樂に足らざることなし。 何の望ありてか天上に至り、 かゝるいやしき職を受け給ふや。我徒快く酒をすゝめて大王のをやすめ奉らん」と頓て酒宴を催し、良興を催しける。時に獨角の鬼二人、赤黄袍一領を献じて、孫悟空が前に再拜し、永く手下に属せんと乞ふ。悟空大きによろこび、かの鬼兩人を先陣の大將と定め、赤黄袍を身に着し、自から齋天大聖と称し、一つの大旗に此四字を書記し洞門におし立て、天兵もしも押來たらば只一息に討破らんと、勢猛にまち居たり。

昨日は、ついオレリア・ミシェルの『黒人と白人の世界史』を読みふけってしまったが、我々はこういう暴力に対してカンタンに憤ることが出来る。しかし、悟空みたいな身近な暴力にかんしてはつい逃亡する。

身を捨てて浮かぶ瀬ありし月と花

寺田寅彦が帝大やめたとき詠んだものだ、花鳥風月はちゃんと役に立つのである。しかしこれが寺田の帝大からの暴力的同僚からの逃避ではなかったとは言えない。

浅田彰はエリートだが不良少年だ。――ポリーニのレコードをたたき割るのを夢に見るが、小林秀雄の骨董をたたき割る夢は見ない。しかし彼は自分に対してだいぶ示唆的であるのだ。われわれがいろんな理屈をつけながら骨董趣味に固執している事態を甘く見ていることにかんしては、まだ浅田はかなりましな方なのであって、自覚があるのである。しかし、まあ本質的には、骨董をたたき割る暴力に対して浅田はまだためらうほどの上品さを持っていたと単純に考えるべきかも知れない。

対して、昨日なくなっていた唐十郎とか、その周辺の文化圏なんかはその上品さを持ち得ない。だいたい、唐十郎がアングラな訳ないだろ、あんなにひと目についてるのに。寺山修司が唐十郎に殴り込みかけた(逆か)とか、寺山の葬儀委員長が谷川俊太郎とか、寺山と唐が同じ日に死んだとか、すべてのエピソードが体育館の裏でこいつらに肥溜めぶっかけたいレベルである。性に合わないというのか、彼らからはなにか気取った暴力を感じるのでいやである。彼らは、坂口安吾などのように、落伍者ではない。エリートのくせに暴れたがっている、つまり孫悟空みたいなものなのである。おれのテントじゃキングだったのに外部で馬の係は許せない、テントに帰ってきたわ、いまからおれはセイテンタイセイということにするぜ、みたいな感じである。要するに、彼らは本質的に、寺山も含めて東京もんなのである。外部があることをまだ信じられないのだ。

こういうタイプが教育界にもたくさんおり、コミュニケーション能力で人間の能力を測ろうとする。こういう猿は、わたくしの幼稚園の出席日数が足りないからと言って卒園させず小学校に入れないように画策する怖ろしい思想の持ち主だ。