★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

公犬論

2024-05-20 23:48:26 | 文学


妖魔是を聞きて大きに驚き、寶杖を投げすて、菩薩の前に跪づき、謹んで申しけるは、「我は原天上靈霄殿に有て捲簾の大將なりしが、玻璃の蓋を打砕きし罰によって、鞭打るると事八百、終に下界へ逐下され、此河中に身をしづめ、常に食乏しく飢にくるしみ、たまたま往來の人あれば是を捉て食となす。今も菩薩の來迎を知らず、凡胎の僧なりとおもひ、とらへて吃はんとおもひこそ罪ふかくもおろかなれ。唯望むらくは大慈大悲の菩薩あはれみを垂れ給ひ、我が此くるしみを救ひ給はば、生々世々の大恩わするる期あるべからず」と旧瀑布をなして告まゐらすれば、菩薩も憐れとおぼしめし、「你天上にて罪を犯し、下界に来つて殺生をかさねば、さらに減罪の期あるべからず。我今東土に行きて経をとる人を需めんとす。你早く善果にして、かの経をとる人の弟子と成り、西天に来て如来を拜せば、其時罪を免されて、ふたたび本職に帰るべし」

西遊記は、人間と河童と豚と猿の物語である。さすが中国である。われわれはつい「犬」を入れてしまいがちである。映画「ケルベロス」は好きな映画であるが、押井守が組織の中の人間ばかり描いているからだ。この物語に出てくる犬としての人間は、――「犬」でありどこまでいっても「犬」なのである。押井は人間が犬として死ぬこと描きながら、その死んだことに堪えられない。だからその犬死をくり返し描いている。わたくしはまだこういうドラマの方が堪えられる。緩慢な生を組織する社会は学問にまで浸潤している。

学会とか会議の司会がアナウンサーみたいな口調になっているのは流行なのであろうか、と思って細に聞いてみたら、事務職でもそうらしいから学問の堕落ではなかった。社会の堕落であった。――むろん、こういうのもある種の抑圧であり、神経質な殺伐さが失われて対話もなにもなくなってゆく。学会発表もどこかしらショー化している。本質的な議論は議論をすべきところでやり、懇親的なところではもっとくだけた裏話みたいなものをやるのが学問の動物的社交というやつだったとおもうが、いまは下手すると議論をすべき場が社交ダンスの場となって、めんどうな議論は懇親会で(――しかも結局はしない)というかんじになっている。だから、仲間はずれみたいなものが、何処の場でも隠されて隠微に行われる。建設的な意見を、みたいな方向性はたいがいこういう結果をもたらすのだ。政治家達を笑えない。――われわれは、周囲の物を臭う風景ではなく、物の手触りみたいなものとして愛玩するようになっているのだが、要するに育ちが良くなりすぎて犬ではなく人間になってしまったのであろう。アンチヒューマンみたいな論調はその証拠である。坂口安吾が野良犬のような人間に人間をみた直観は間違っていなかった。

雑多な成績の人間がいる高校を出たので、都会の均質化された集団出身の連中において、知的緊張感があるかわりに魂が弛緩している場合が多いことを、わたしは昔感じたものである。大学に金がかかるようになればますますそういう魂の状態は広がってゆく。

一方、所謂「文化」についてわたくしはあまり心配はしていない。ネット上の、大河ドラマとか朝ドラの感想をみてると、結局、物語や小説でものを考え始める人はとてもおおい。。そりゃそれによって限界づけられることは多いが、その限界でさえ我々を別の思考へ促している。文化的なもので本質的に非人間的であるが、そういうものは容易に続くものである。

我々は文化的な連続を人間にもインストールできると考えがちである。人間も連続的な――発達過程があるとか考えるからでもあろう。で、その発達も個性があるとい言うので、一人一人に対応しようとするわけであるが、――ひとりひとりにきちんと対応した教育というのは、下手すると教師の指示をある種の「公」の指示ではなく、自分への指示だと受けとることを肯定する訳だから、何かの指示を自分の文化的=利益だけに照らして判断する人も増やすにちがいない。教員の指示というのは、大学だってそうだが、個々への指示ではなく「大体こんな感じであとは自分で考えて」みたいなものを逸脱することはない。社会でも規則とかコモンセンスなんてそんなものだが、それを自分への厳密な命令(文化的なもの)ととるひとが増えるとどうなるかということだ。「公」というのは、犬の群れにちかいものである。