★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

二重の想像力

2024-05-19 23:39:04 | 文学


「ごついな」
「おなごのくせに、自転車にのったりして」
「なまいきじゃな、ちっと」
 男の子たちがこんなふうに批評している一方では、女の子はまた女の子らしく、少しちがった見方で、話がはずみだしている。
「ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな」
「でも、モダンガールいうのは、男のように髪をここのとこで、さんぱつしとることじゃろ」
 そういって耳のうしろで二本の指を鋏にしてみせてから、
「あの先生は、ちゃんと髪ゆうとったもん」
「それでも、洋服きとるもん」
「ひょっとしたら、自転車屋の子かもしれんな。あんなきれいな自転車にのるのは。ぴかぴか光っとったもん」
「うちらも自転車にのれたらええな。この道をすうっと走りる、気色がええじゃろ」


――「二十四の瞳」


果たして、「二十四の瞳」は、どの程度「模写は虚相を生ず」みたいな考えを実現しているのであろうか。わたくしは、こういう会話の場面こそがそうであるきがする。戦後の想像力は、こういうところがある。想像が現実の真実と言うよりすこしうわずった感じになってしまう。

大学院のころ、ある先生に「推測に推測を重ねてはいけません」と言われたが、――わたくしは、ゴジラが空を飛んだりする場面を想起した。我々の想像力は、そういう意味で推測を推測で重ねるような行為をしてしまう。それをやめると、正義派になってしまい、それはそれで嘘くさくなるからだ。