Eの停留所からでも帰ることができる。しかもM停留所からの距離とさして違わないという発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許へ行くのにMからだと大変大廻りになる電車が、Eからだと比較にならないほど近かったからだった。ある日の帰途気まぐれに自分はEで電車を降り、あらましの見当と思う方角へ歩いて見た。しばらく歩いているうちに、なんだか知っているような道へ出て来たわいと思った。気がついてみると、それはいつも自分がMの停留所へ歩いてゆく道へつながって行くところなのであった。小心翼々と言ったようなその瞬間までの自分の歩き振りが非道く滑稽に思えた。そして自分は三度に二度というふうにその道を通るようになった。
――梶井基次郎「路上」
トッドとかガブリエルとかの「2035年の世界地図」というのを読んだが、なんかしらんけどとりあえず調子に乗るなみたいな感想を持ったので、岸上大作なんかを書棚からひっぱりだしてみたんだが、これはこれでもう少し調子に乗っても良かったのではないかとおもいつつこの平凡さではだめなんだよなと思い、しかしまあ平凡でかわいいとか言っている我々よりも根性ありそうだとも思うわけである。吉本隆明が文庫で追悼文書いていたが、吉本は時々ほんとに人の心がなさそうなかんじのときがあるのだ。普通に岸上の遺書を読んだ限りでは、彼が自死したのは吉本との関係性にあるのであって、吉本のせいではないが、わたくしならこういう内容は書かない。寺山修司の悪態のほうがまだましではないか?
岸上は吉本や寺山を「推し」ていたのだ。そうではなく「愛」しか語彙がないとどういうことになるのかということを考えた。「推し」について講義してたらいろいろ思いついたな。。。
もう一回、「小説神髄」をちゃんと読む必要がある。昨日の授業でも話したが、近代日本が徐々に狂っていたのではなく、もともと徳川ぼけで狂っている部分があり、それが近代の病に錯覚されているという事情もあるからである。
日本文學報國會の会員名簿を一生懸命見てしまったが、名簿をこんなにじっくり見たのは今まで生きてきたなかではじめてだ。