毬栗の丸い恰好のいい頭が、若い比丘尼みたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁と頬がホンノリして唇が苺みたいだ。睫毛の濃い、張りのある二重瞼、青々と長い三日月眉、スッキリした白い鼻筋、紅い耳朶の背後から肩へ流れるキャベツ色の襟筋が、女のように色っぽいんだ。
――夢野久作「難船小僧」
昭和50年代の『文藝春秋』めくっていたら、文士劇の広告が出てて、村上龍とか中上健次がでていた。たぶん文士劇の最終回である。村上龍とか中上はこういう意味でも最終回の役回りになってしまった。
そういえば、長谷川宏氏の『日本精神史』において特徴的なのは戦後である。朝日新聞の『語る――人生の贈りもの』においても、鶴見や吉本が触れられていないのはなぜなんだと友人たちから文句が出たらしい。わたくしはなんとなく、長谷川氏が歴史を終わらせたくなかったからではないかと思った。鶴見や吉本というのは、歴史を終わらせた人なのである。村上や中上と同じである。