何もかもこれでいい。自分は一人の女を恋している。それでいい。それだけでいい。橋の向うへ行ったとて、この金網の小窓からは、何がいったい見られよう。……
三階建の洋館が平屋の連りに変って行った。空地がそこここに見えだした。花園、並木、灰色の道。――たった一つのこの路が、長く長く馬車の行方に続いていた。その涯の所に突然大きな建物が、解らないものの中で一番解らないものの象徴のように、巍然として聳えていた。彼はそれを監獄だと信じていた。
――池谷信三郎「橋」
保田與重郞は「橋」にこだわったが、いかにも旅人、つなぎ役に文学を感じる昭和モダニズムの徒である。しかし、わたくしは橋と言えば、木曽川にかかる行人橋とか、――かなりの水量のうえを決死の覚悟で渡したかんじが橋であって、橋は「あはれ」でもなんでもない。
しかし、世の中を生きることが、墜ちそうになりながら橋をわたるような感じになっている「にごりえ」の主人公みたいなのが、一般化しすぎて、渡る橋よりもまずはねぐらや居場所を求めているのが現代人である。
そういえば、家を建てるときいろいろ見物してまわったけども、子どもと主婦のスペースが大きく遊園地みたいにとられている一方、帰ってきたダンナのスペースは、トイレより小さい読書スペースしかない、――みたいなモデルがたくさんあって、これじゃ家には帰りたくないし家事を分担とかいってもまずどこに座ればいいのか分からないダンナは多いと思った。よく日曜日にダンナが床に寝てて「主婦」があなたどいて下さいとかいって掃除機でつついているイメージがあるが、あれダンナのスペースが実際ないんじゃねえかな。。まああの時代は子どもも主婦もじぶん用の場所なんかなかったと言えばそれまでなんだが。
とにかく静かな居場所はほしいもので、授業においてだってそうなのだ。やたらパーソナルスペースを相互に侵させる授業はしたくない。