アルクイスト 神よ、わしに力をお与えください――神よ、わしに力を――この殺人が無駄に終わらぬように。
ラディウス 準備はいい。始めてくれ――
アルクイスト ああ、始めよう。いや、終わるかもしれん。神よ、わしに力を。
アルクイスト、解剖室に去る。だがおびえた様子で戻ってくる。
アルクイスト だめだ、だめだ、わしには無理だ。できん。
アルクイスト、ソファに崩れ落ち、横たわる。
アルクイスト 主よ、この地上から人間を絶やさないでください。
――K・チャペック「RUR――ロッサム世界ロボット製作所」(大久保ゆう訳)
柔らかいうどんが食べたいなとおもう高松市民ですがみなさんいかがおすごしですか。
わたしが科研費とうどんを嫌っているからといって別に逆張りをしているわけではない。革命というものを考えているからだ。例えば、中日が最下位になったとかいうことであるが、吉本隆明もいっているように、なんか幻想が逆立したりなんかするらしいから、とりあえずドラゴンズファンはただちに倒立しろ。
頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。
――寺田寅彦『科学者とあたま』
うどんや科研費に淫するのは批評家になることである。寺田の言う「行為」がないのだ。高松美術館でやってた「ジャイアントロボッツ」展をみにいったあと、授業で、国家と労働者のロボット化、つまりおれたちはみんなロボットだみたいな陳腐な授業をやってしまったが、こういう説明以上に、戦後の『堕落』文化の意味や性の開放の話のほうが学生にとってはあまり頭にはいらないようだった。つまり、フーコーやらユンガーの「批評」のほうが、人間の行為の話よりなじみがいいのである。それは羞恥心とはちがう。忌避感に近い。行為がないのに、果たして人間社会が創発をもつであろうか?
我々の精神において、雑さともろさは近い関係にある。これは、教師をやっている人たちは自覚しているだろうと思う。粗雑さに対する対処はだからいつももろさに対する対処になってしまうからだ。ある意味、粗雑さと強さの結びつきを恢復する必要もあるのである。雑さは雑草みたいにみえるのだが、実際は、空洞が多い骨みたいなものなのである。――つまりわれわれは実際にロボット化しているのである。