★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

反観光客の哲学

2024-05-22 19:37:52 | 文学


「あの光り立候山こそ、蟠桃會をかき亂したる斉天大聖を、如来の封じ置き給ふ五行山なり。金字の壓帖則かしこにあり。師父立ちよりて看給ふべし」菩薩則其言に随ひ、この山上に至りて帖子を見給ひ、一絶の詩を賦し給ふ。
  堪歎妖猴不奉公
  當年狂妄逞英雄
  自遭我佛如來困
  何日舒伸再顯功
かく詠じて山を下り、悟空が在所を尋ね給へば、土地山神都て出迎へ、悟空が居所に導き奉る。悟空原來石の匣の中に壓へられ、手と口とは働けども、身は一分も動く事あたはず。菩薩立よりて、「我を見知りたるや」と問ひ給へば、悟空面を上け、「我よくを見知りたり。南海普陀落迦山の大慈大悲の南無観世音菩薩にてはあらざるや。


われわれの記憶は実に信用できない。三蔵法師が悟空が埋まっている五行山で七言絶句を詠んだことなんかすっかり忘れていた。英雄の再出発を迎えるにあたり、じつに手順を追って悟空を再登場させているのである。三蔵法師だって過去に罪があって、それがたしかあとで語られるところも趣がある。英雄を英雄のまま扱えるなんてのも最近強まったに過ぎない勘違いである。

わしらの業界だけでなくいろんな現場で、悟空並みに狂った支配者予備軍が、今日も制度を壊す、遠慮なしの意見を言う形で出現し続けている。そもそも、「空気を読む」という言い方がコミュニケショーン能力あるいは群れの情けなさを示しているのは半分以上嘘であって、そこにはもっと明確に個人主義的な矜持じみた心理が混じっている。空気を読む能力と新たな世界を作り出そうとする能力はそれほど違っているわけではない。だから神話に於いては英雄を善として描き出すのに躊躇いがみられ、しかし、この躊躇いを払拭したい心理が極端な英雄像をつくりもするのである。

朝ドラでも大河でも、主人公が男でも女でもそれは英雄で、それが好きなひとはおおいが、――実際世の中を動かす当事者というのは「頑強な」保守性の中にこそあり、弱者も英雄もその保守性の一部なのである。それがめんどうでかったるく感じる言語優先的な人々が急に法の支配に人間性を押し込めようとする。法はもともと人情の世界に接地しているべきもので、それ自体をいじくり回す段になったら、極端な過ちが隣に控えていると言ってよい。だから、われわれはその接地を文学やドラマで確認しながら現代社会を生きている。今やっている朝ドラなんかの心意気はそんなところだろう。

柴崎友香氏の『あらゆるところは今起きる』という、みずからの発達障害の報告記は、氏が巻末で言うように、横道誠氏の試みに続くものである。だから、接地するのがおそらくテキストで、自らのほんとうの体験は記されていないような感触があった。小説家なので、どことなく上手く嘘をつくのがうまい文体が氏に身についているからかも知れない。男女の違いもあるかもしれないが、わたくしには生々しい感触がなかった。

観光客になってはいけないのだ。観光は、認識したもの/見たことのあるものを見に行くことである。そりゃ実物を見て何ものかを感じるために行くのだということであろうが、実際は、まったく知らないものにはなかなか出会おうとしないのがわれわれで、観光に行きすぎる人間には感想がなくなってゆく。最近ニュースになっている、山梨にコンビニの上の富士山を見に行くみたいなものとか、ばかばかしいにもほどがあり――そもそも花火とか富士山とかを観に行くこと自体がダサいのである。線香花火とか隣のガキが作った砂山の美を堪能すべし。よほど発見があるはずだ。

確かに、山梨側から見る富士山はぼってっとしたかんじが、ルッキズムに対するなにかであろう。

形だけだったら讃岐富士の方がいい。自然の造形とはおもえない。

そもそも観光というのが冷静に考えてすきではない。むかしからさんざ言われてきたように、観光地の創造とは、ある種の歴史の修正であって、さまざまな要素が観光地化で撤去されたり言い換えられたりして、その土地の不自然な発展や没落が強いられている。木曽なんかでもそういう要素がある。観光地化にともなったそのオモテナシ的なたいどのおかげで、日本人総幇間化が起こっている。――富士山を日本人が古来愛してたとか、うそばっかりついている。富士山なんかほとんどの国民は見たことなかったわ。

そういえば、罪人・三蔵法師も一種の観光客じみた甘さがあり、五行山で漢詩など詠んでしまったに違いない。